その日はいつもより早く配達に出て、いつもより早く帰ってきた。うちの仕事はお客も多くないし忙しさという意味では大したことないので、時間の配分は何とでも都合がつく。だからこうして予定よりも前後するのはよくあることだ。夕方に差しかかった頃の、赤みがかった夕日がぎらぎらと輝く中、いつものようににぎわう職人街を歩く。仕事に一段落を付けた職人達が世間話に花を咲かせる、そういう時間帯だ。
そんなざわめきをかき分けて我らが「ナイアのお店」へたどり着くと、そこには見知った顔がいた。
「よう! 悪いな、ずいぶん遅くなっちまった」
「やあ、ファイグ。――あれ、師匠いない?」
「いや、いるんだが、荷物を運び込むのはお前とするほうが楽だからな」
威勢良く声を掛けてきたのは、いつもの問屋だ。日焼け顔は活力いっぱい、俺より年下だけど俺よりしっかりしていると評判のファイグ。背負っている大荷物には、注文した魔導実験用素材がぎっしり詰まっているはずだ。俺はひとまず師匠に帰宅を知らせ、路地裏に面した搬入口の鍵を内側から開けてファイグを呼ぶ――までもなく、既にファイグはそこで待っていた。そして荷物を倉庫前まで運び込むと、納品伝票と俺の用意していた次回注文書とを交換し、来たときと同じように威勢良く帰ろうとする――その時だった。
「‥‥んん‥‥? なんだ、騒がしいな」
通りへ出ようとしたファイグが怪訝そうな顔でつぶやいた。言われてみれば、確かに変な騒ぎが聞こえる。誰かが何かに追われているような、そんな感じだろうか?
「‥‥あの騒ぎ、なんだか近寄って来てない?」
「‥‥そう、だよな‥‥」
スリやこそ泥を追いかける、というような感じとは少し違う。そういう困った連中は、普通は小柄で、人混みに紛れ込むようにして逃げていく。だけど、今の騒ぎは‥‥もっと重量級のやつが全速力で走っているような――そんな感じだ。
‥‥ドドドドド‥‥
「‥‥おいおいおい、本気で近いぞ‥‥!」
悠長に音を分析していると、それは「騒ぎ」どころか「地響き」に変わりつつある。ファイグは身の危険を感じたのか、路地の壁に身を寄せた。音はものすごい響きになり、表通りからは「きゃあ」だの「うわっ」だのといった悲鳴が溢れ始める。こ、これはっ‥‥!?
「危ない、中へ!」
俺の声にファイグも慌てて駆け込んできた。地響きはいよいよ大きくなり――
「蹄の音‥‥か‥‥!?」
ドドドガガガガガガッ!!
「悪い! 匿ってくれ!!」
* * *
‥‥ドドドドド‥‥
「ふうっ‥‥」
衛兵用の軽装鎧を着込んだミノタウロスの一団は、地響きを残しながら走り去っていく。それが十分遠ざかったことを確認して、その闖入者はようやく息をついた。
‥‥えーと‥‥。
閉めきった搬入口の内側では、何とも言い難い沈黙が場を支配していた。混乱した俺。引きつったまま固まっているファイグ。そして、闖入者が二名。最初は一人だと思った――というか、「何か」が飛び込んできた、としか思えなかったんだけど、どうやらそれは二人連れだったらしい。と、そこまでは分かったけれど、でもそれがどういう二人連れなのかは謎のまま。見た目では何も分からない。かといって状況から判断すると、衛兵に追われていた以上はどう考えてもお尋ね者にしか見えない。にもかかわらず、お尋ね者と言い切るには何か変な感じがした。どう言えばいいのか‥‥無理に言葉で表現するなら、「悪そうな感じではない」というぐらいの言い方しかできないんだけど。
一人は――小柄な方は、どう見ても人間だった。たぶん年は俺やファイグよりもいくつか下、十代の半ばに差しかかるかどうか、ってところだろう。「ぼろ」と呼んで差し支えがないような服、すっかりすり減ったよれよれのサンダル。貧民街の住人でもこれほどじゃないだろう、というぐらいの身なりだ。焦げ茶色の髪はぼさぼさ、でも顔は利発そうで、目の輝きは芯の強さを感じさせる。
で、問題はもう一人だ。‥‥正直に言って、これはもう俺の認識の枠外に近い。今は身をかがめているものの、その体はものすごく大きい。ものすごく大きい、女の人だった。単に大きいだけじゃない。薄暗い中でもはっきり分かるほど、筋肉がゴツゴツと盛り上がっている。腕なんて俺のを三本ほど束ねたぐらい太そうだ。分厚い胸板、腹筋、なのに大きなおっぱい。そういうのが一目で分かるほど露出の多い鎧(って言うんだろうか)を纏っていた。そして、轟音のような足音の原因も分かった。上半身は人間とほとんど同じ、でも下半身は黒っぽい毛に覆われてる。そして足は蹄、頭には大きな角が二本‥‥。要素からすれば人間と牛なんだけど、さっき走り抜けていったミノタウロス達とはずいぶん印象が違う。まさか同じ種族‥‥じゃないよね?
「おかげで助かった。邪魔になったな」
その女の人は低めの声でそう言って、搬入口を開けようとする。でも、それを引き留める声があった。
「‥‥待ってください。辺りがまだざわついてます」
言ったのは闖入者の男の子。格好に似合わない丁寧な口調に、俺とファイグは思わず顔を見合わせる。
「そうは言っても、長居はできない」
「そ‥‥それは‥‥。――あ、あの、申し訳ありません!」
あくまで出て行こうとする女性の答えに、少年は一瞬口ごもり――やおら俺の方を向いてこう言った。
「しばらく、いえ、一日だけ泊めてください! ご迷惑は承知の上です、でもどうかお願いします!」
「え‥‥っ!?」
絶句――そして、沈黙。全員が、完全に黙ってしまった。でもこの沈黙もすぐに破られた。
「ちょっとラート、今の騒ぎって――‥‥誰? この二人は」
おっぱいを揺らしながら、遅まきながらのご登場。もう少しささっと入ってきてくれると俺は助かったんですが‥‥師匠。
「いやその‥‥ついさっき衛兵に追われて逃げ込んできたんです、この二人。細かい事情はまだよく分からないんですけど‥‥」
「珍客ね‥‥。じゃあ、ひとまず食堂に移りましょ。事情は落ち着いて聞かないとね。――二人ともついてきて」
師匠は軽く頷くと、二人を連れて食堂へ消えてゆく。俺もそれに続こうとしたら――後ろから袖を引っぱられた。振り向くと、ファイグが眉をひそめて俺を招く。
「‥‥なあ、お前はどう思う」
「‥‥何が」
と問い返すと、声を潜めながらも焦れたように、
「あの二人のことに決まってんだろ! ありゃあお尋ね者だぜ、衛兵に追い回されてたんだから間違いねぇよ。そんなの泊めたら‥‥」
うーん。確かにその心配は当然だ。でも‥‥何か違う気がするんだよな。悪い人じゃない、気がする。気がするだけだけど。
「そうかなあ‥‥どっちにしても俺に決められることじゃないよ。師匠がどう考えるかがすべてだから」
「ったく‥‥お人好しもほどほどにしておけよ。まあ、ナイアの姐さんは妙に勘が良い人だから‥‥姐さんの判断はオレらが考えるよりも確かかもな。とにかく、気だけは付けとけよ。――オレはこの辺で帰るぜ」
一通りのことを言い置いて、ファイグは帰って行く。――心配してくれているのはよく分かる‥‥けど‥‥うん。おっと、こうしてる場合じゃないや、さっさと行かないと師匠が怒る。
* * *
食卓には既に三人が掛けていた。突然の来訪者達は居心地悪そうに座ってる。少年の方はともかくとして女性の方はどうにもこうにも椅子の大きさが合わないらしく、しきりにお尻をもじもじさせているようだ。その二人に向かって、師匠が座っている。
「遅いよ、ラート。――さて、これで揃ったね。事情を聞く前に、まず簡単に紹介しておくわ」
師匠は俺の椅子を引いてそこへ座るよう促すと、軽く顔を見渡し、
「まず、あたしが店主のナイア。魔導士よ。で、こっちが弟子のラート」
と、手ぶりで簡単に紹介。それに直ちに続いてまず女性のほうが、
「ガディザだ。騒がせて済まない」
続いて少年が、
「ヤールと言います。重ね重ねご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
非常に簡略ながら、あっという間に自己紹介終了。
「こちらこそ。で、うちに泊まりたいって言うのはどういう理由?」
二人の緊張をほぐすためだろう、師匠は努めて友好的な態度で本題に移った。もちろん、それだけで二人が落ち着くわけでもないだろうけど、多少の効果はあるだろう。
「‥‥僕たち、東の方から旅をしてきて、今日この街へやって来たばかりなんです。お金ももうほとんど無いし、寝るところも食べる物も‥‥とにかく何とか仕事を探したいんですけど、その前に腰を落ち着ける場所が欲しいんです」
師匠の問いかけに答えたのは少年――ヤールの方だった。女性――ガディザさんも口を開こうとしたけどそれより先に答えた、という感じだ。俺が直感的に感じた利発そうな印象は正しかったらしい。
師匠は少年の話を「ふーん」と聞き、
「で、なんで追われてたのよ。そこの所が分からないとさすがに、ね」
「そ、それは‥‥」
急に口ごもる。ほとんど同時に、ガディザさんが口を開いた。
「わからない。入市の時には何のお咎めもなかった。いまこいつが言ったように、とりあえず行動の拠点を確保しようと宿を探しがてら散策してたんだが‥‥突然追われ始めた。理由は俺が知りたいくらいだ」
ぶっきらぼうな感じはするけど、こちらも口調はしっかりしている。何かやましいことがあってそれを隠す、ということはなさそうだ。もっとも、隠す必要がないことだけを話しているのかも知れないけど、困惑がこちらにも伝わってくる。
師匠は彼女の言葉を静かに聞いていたけど、やっぱりまだまだ気になることは多い。
「武器を無断で持ち込んだ、とかは? あなたのそれ、いちおう鎧でしょ?」
腕を組んだまま、ちらりと彼女の胸元を指す。うーむ。少なくとも、俺の知っている「鎧」というものとはずいぶんかけ離れている。だいたい、これでいったいどこを護れるんだと思うほど露出が多い。師匠の露出も相当なものだけど、これは鎧じゃないからね。
「防具くらいどうってこともないだろう。最初は武器も持ってたが、この国へ来るまでに路銀に変わった。それにさっきも言ったように、最初はお咎めもなかったんだ」
「妙な話よね‥‥。ま、とにかく今日は泊まっていいわ。――そうだラート、ちょっとお湯を沸かしてよ。ずいぶん汚れてるみたいだから、とりあえずお風呂に入ってもらいなさい」
ファイグが聞いていたら怒り出しそうなほど、交渉はあっさり終わってしまった。師匠は驚くほど大雑把、というか鷹揚な態度だった。俺は、ファイグの反対それ自体は間違ってない、と思う。あいつが言うように、もし二人が犯罪絡みで追われていたなら、それを匿った俺たちも相当なお咎めを喰らうのは間違いない。それにもっと悪くすれば、師匠と俺の身の安全に関わる可能性がある――あの二人が仮に強盗だったなら、たしかにその通りだ。ファイグは俺たちのことを本気で心配してくれているからそう言ってくれたわけで、その点はとてもありがたい。でも、師匠もその辺りのことを分かっているはずなのに一向に気にしないらしい。湯浴みをする音を聞きながら、俺はその辺りのことを尋ねてみた。
「んー‥‥まあ、勘ね。悪い奴らじゃなさそう、って思うの」
勘ですか。師匠の勘なら、まあ大丈夫かな。ファイグもそう言っていた。
「んふふ。ようやくあたしの直感の素晴らしさを身に染みて理解できたようね」
‥‥やっぱりすごい。
* * *
きいっ、という軽い音とともにドアが開く。
「おおっ」「化けたわね‥‥」
臨時に貸した俺の部屋から出てきたヤール君に、師匠と俺は思わず唸った。
髪と体をきれいに洗ったせいもあるけど、服を替えると印象がまるで違う。これなら、そこそこ栄えてる交易商人の息子だと言われてもそれほど違和感がない。言われてみれば顔立ちもそんな感じがする。‥‥ますます素性が分からないな。
が、彼自身はと言えば、新しい服に慣れないのか、なんだか決まり悪そうだ。
「あの‥‥なんてお礼を言って良いのか‥‥」
「たいしたことじゃないわよ、気になるっていうなら出世払いってことにしておいて」
片目をつむってみせる師匠に、ヤール君はまたしてもお礼を言った。
――師匠は、風呂から上がった二人のために服を用意することにしたんだ。二人が追われる理由は分からないとしても、とりあえず服装を変えれば目に付かないだろう、というわけだ。幸い、この街では裁縫したり仕立屋に注文したりするまでもなく、標準的な体型なら服の形になって売っている。ヤール君にはそれを買ってきたわけだ。問題は‥‥ガディザさんだ。あの体型に合う服というのはちょっと想像できない。ひとまず、背格好が似てそうなオーガ用の服を買ってきたんだけど‥‥。
「‥‥で、お連れは?」
「ちょっと遅いですね‥‥見てきます」
ガディザさんはなかなか姿を現さない。痺れをきらした師匠に、ヤール君は部屋へ戻った――かと思うと、ドアの隙間から顔だけを出し、
「あの‥‥申し訳ありませんが、ハサミを貸していただけませんか‥‥?」
「‥‥これは‥‥また‥‥」
「なんていうか‥‥凄いことになったわね」
姿を現したガディザさんは、俺の予想をかなり超えた格好になっていた。厚手の麻布で作られた長袖の服だったんだけど、どうやら腕が袖に入らなかったらしい。袖は付け根からばっさりと切り落とされていた。そして胸もきつかったらしく、襟元も深く切れ込みが入っている。そうすると、裾の部分が胸に持ち上げられてしまい、本来なら隠れるはずのおへそまでしっかり見えている。下半身はなんとか丈は合ったようだけど(それでも脛がかなり出てしまっている)、太さはぎりぎりだ。中に太股がパンパンに詰まっているのが一目で分かる。‥‥力を入れたらバリッといくかもしれない。腰の所もボタンまで布地が届いてなくて、ベルトで辛うじて止まっているようだ。これは‥‥完全に目測を誤ったな。もう一回りか二回り大きいのを買ってくるべきだった。
「せっかく用意してもらったのに‥‥すまない」
「気にしなくて良いわよ、こいつがちゃんと採寸していかなかったのが悪いんだから」
なんだかしょげているガディザさんを慰めつつ、師匠は素知らぬ顔で俺の尻を思いきりつねった。痛い痛い痛い!
* * *
その日はいつになく混み合った晩飯になった。人数が多いから、というのもあるものの、何より皿の数が多くて食卓の面積がほとんど限界だ。それはそれとしても、会話がない。
「‥‥」
「‥‥」
「‥‥すいません」
沈黙する師匠と俺に向かって、実に申し訳なさそうに謝るヤール君。いや‥‥師匠が泊めると決めたお客なんだから、謝ることじゃないんだけど‥‥これは凄いな。
ガディザさんが食べる。ものすごい勢いで食べる。脇目もふらず、ひたすらに食べる。尋常じゃない量の肉を盛りつけたはずが、あっという間にほとんど無くなりかけている。た‥‥足りるのか‥‥?
「ここまでくると壮観ね‥‥」
本気で感心している師匠。師匠も食べっぷりは良い方なんだけど、さすがにこれと比べるわけにはいかない。二人であんまり感心していたからか、黙って顔を伏せつつ食べていたヤール君が遂に口を開いた。
「道中、あんまり食べてないんです。隊商の護衛や荷物運びを手伝いながらの旅だったんですが‥‥さすがにガディザ様のお腹を満たす食事は無理ですから」
と、恥ずかしそうに縮こまる。うーん‥‥利発な感じはするのに、どこか卑屈さを感じるなあ。それにしても、この二人の様子はいろいろと変だ。態度、言葉遣い、そして二人の関係‥‥何かが不自然だ。どうやら主従のように見えるけど、でもガディザさんもどこか頑なな雰囲気がある。少なくとも、お供を連れて旅をするのに慣れているという感じがしない。従者を連れているなら相応の財産がありそうなものなのに、それもない。今までの会話で二人について分かってたのは、名前と、「東から来た」ということだけ。ある程度気を許してくれてはいるものの、二人からはぴりぴりとした緊張感が漂う。まるで布の袋に針をたくさん詰め込んだような、そんな感じだ。少し触れば、すぐに針先が光る。
俺の疑問はもしかすると顔に出ていたかもしれない。猛烈な勢いで食べ続けるガディザさんはともかくとして、ヤール君は料理を食べながらちらちらと俺と師匠の顔を見ている。そして‥‥おずおずと口を開いた。
「あの‥‥僕たちのこと、少し話しておき――」
「ヤール」
でも、彼の控えめな発言は本題を匂わせた瞬間に遮られた。遮ったのは、ようやく料理から顔を上げたガディザさん。彼女は視線と有無を言わせない口調でヤール君を黙らせ、そして一息ついてから――
「素性のことは‥‥今は話せない。なぜ追われているのかが分からない以上、まだ話すわけにはいかない。‥‥それに、場合によっては話すとそちらに迷惑が掛かるかもしれない」
よほどの訳ありなんだろう。警戒と俺たちへの配慮――二重の緊張が、ガディザさんを締め付けているのが痛いほど分かる。うん‥‥悪い人じゃないよ。これは。――なんて言うとまたファイグに怒られるな。「そんなお人好しだからお前はいつまで経ってもガキっぽいんだ!」って。自覚は‥‥まあ、多少はね。
* * * *
食事の後はいつもなら研究や講義になるんだけど、今日はこれも中止になった。何もかもいつもと予定が違うので、何かと疲れる。――俺は師匠のベッドで何をするでもなく転がっていた。天井を見つめていると、上の階で二人はどんな顔をしているんだろう、なんて考えてしまう。ほっと一息、って顔だといいんだけど。
件の二人はとりあえず俺の部屋に泊まることになった。三階は部屋が余ってるから、物置になってる部屋を一つ空ければいいんだけど‥‥あの凄まじいガラクタの吹きだまりと化した物置を、半日やそこらで整理するのはどう考えても無理だ。そこで、普段大して使ってない俺の私室を譲ったんだ。あの部屋にベッドは一つしかないし、そもそも人間用ベッドじゃガディザさんがくつろげるかどうかも怪しいところだけど、今日は我慢してもらうほかない。
「あの二人――師匠はどういう関係だと思います?」
鏡台の前で髪をとかしている師匠に、なんとなく聞いてみる。師匠は半分だけこちらを向いて、少し首をかしげ、
「恋人でしょ。駆け落ちか何かじゃないの?」
師匠はこれまたあっさりとそう言い、また鏡に向かった。恋人‥‥恋人‥‥ねえ。どう見ても変な組み合わせなんだけど‥‥。なんだかぎこちない感じもするし。
「どっちかと言えば、主従みたいに見えません? どう考えても対等には見えませんけど‥‥」
と、俺の見解を出してみると、
「主従かつ恋人同士なんでしょ、あたしとあんたも似たようなもんじゃないの。‥‥まあ事情はいろいろありそうね」
なるほど。師弟かつ恋人同士といえば、他人の目にはあの二人と同類だろう。師匠はそれ以上は特に興味なさそうに、化粧水を肌に塗り始めた。塗らなくたってすべすべしっとりのお肌なのに、その辺りはどうしても手入れしたくなるらしい。顔にぴたぴたと塗りおえると、今度は首筋、胸元へと塗っていく。
‥‥ごくり。
喉が鳴った。もう、夜だからね‥‥二人きりだし‥‥いいよね?
俺はベッドから起き上がると、鏡に映らないよう斜め後ろからそっと近寄り――
「あんっ! ちょっと‥‥こら‥‥!」
* * * * * *
「素性は‥‥話しておいたほうが良かったと思います」
部屋に入った途端、少年はそう言った。ヤールがガディザに意見するというのはそうあることではない。しかし彼に意見されることはある程度想像していたのか、彼女は特に驚くこともなかった。彼女にとってはずいぶん小さいベッド――しかし以前の身分では味わえなかった、清潔で柔らかいベッド――に腰掛けながら、静かに口を開く。
「俺もお前も、逃亡奴隷だ。奴隷の逃亡は鞭打ち二百回。特に俺は王宮警備隊の身で、身内を殺しながら逃げた。逃亡罪に加えて反逆罪――鋸引きが相場だ」
ガディザは自らに科せられるはずの壮絶な刑罰を淡々と口にする。鋸引きとは、大きな鋸で頸を切断する処刑法である。彼女の故国で最も恐れられる刑の一つだ。鞭打ちでも、二百回となれば命を落とす者も多い。
「で、でも! それはシファーダの話です! ここはそういう国じゃありません!!」
「声がでかいぞ」
思わず声を上げた少年だったが、その一言に慌てて口をつぐむ。
「お前はこの国にいたことがあるんだったな‥‥」
「はい。小さい頃ですけど‥‥」
それを聞き、彼女は「ふうっ」と息を吐き、ベッドに寝ころんだ。全身は乗せられないので、腰から上だけだが。
「俺は‥‥まだ信じられない。確かに国境を越えて、山脈を越えて――空気が全然違うってのは分かった。人間じゃないからって奴隷扱いされることもない、ってのも分かった。でも‥‥まだ、まだ俺には信じられない。どんな種族も同列で、どんな出自でもとりあえずは平等だ、ってのが理解できない。この店の――あのラミアの店主と人間の弟子、その世話になってるってのに、まだ‥‥」
「ガディザ様‥‥」
噛みしめるようなその声に、ヤールは悲しげにつぶやいた。思えば、自分が奴隷として扱われてからの時間はそう長くない。はっきり数えていないが、せいぜい三、四年だ。それまでは知的で明朗な人々――両親、商会の従業員、様々な商人たち――とともに、ビルサやダハーシュを移動しながら暮らしてきた。幼年・少年時代を、あらゆる種族が共に生きる自由闊達な空気を吸って生きてきたのだ。骨の髄までシファーダの気風を呑み込んで生きてきたガディザの不信・不安を、自分のこととして理解するのは無理かもしれない。
しかし、だからこそ、ヤールは絶対にガディザの側を離れないと決めた。勇猛、粗暴ではあるが、寂しげな光を時に浮かべるその瞳を、絶対に一人にはしない――彼女の側にいることが彼女の支えになるならば、自分のすべてを捧げたい。彼より一、二年も年上であれば結婚している者は少なくないが、そんな者でさえ持っていないような強烈な思いを、彼は既に身につけていた。ある意味では、それは奴隷根性なのかもしれない――そんなふうに自覚することもあるが、別にそれでも構わないとヤールは思っている。
「なあ‥‥ヤール。思った通りに教えてくれ。お前は――シファーダが俺らを外国まで指名手配したと思うか?」
寝ころんだまま、ガディザは顔だけを彼の方へ向けた。
「‥‥分かりません。あれだけ派手に逃げましたから、場合によってはそれもありえます。可能性は‥‥そんなに高くないと思いますが。でも、仮にそうだとして、ビルサがそれに応じるとは思いません」
「なぜ」
「ビルサは奴隷なんて制度は認めません。奴隷が外国から逃げてきたなら、保護はしても引き渡したりするとは思えないんです。特にこの国は人の出入りが多いですから、仮にシファーダが何か言ってきても『気付かなかった』といえばそれで終わりです」
「現に追われたぞ」
しっかりとした口調で自分の考えを述べていた彼だが、核心を突かれて口ごもった。
「‥‥何かの間違いだとしか思えません‥‥」
肩を落とし、目を伏せる。それを見ていたガディザは、そこまで聞いて初めて、ある事柄を疑問として認識した。
「そういえば‥‥妙だったな。あの追いかけてきた連中――殺気立ってた割に敵意は感じなかった。‥‥まあ、今考えても仕方ねぇ。寝るぞ――と、ちょっと待ってろ」
謎は謎のまま、何も変わらない。しかし、だからといって二人で唸れば妙案が出るというものでもない。そう考えたガディザはこの件をすっぱりと終わらせ、窮屈そうに着ていた服を上下とも脱ぎ捨てた。そして膝から下をはみ出させたままベッドの脇へ寄り、多少の隙間を空ける。ヤールにそこで寝ろと言うのだろうが、彼が小柄といえどいくらなんでもそれは無理というものだ。
「あ、僕は床で寝ますから」
と、彼も従者らしく殊勝に言うのだが、
「いいから来い。落ちないように俺が抱えてやるから」
「い、い、いえ、そんな!」
裸のガディザに抱きかかえられるのが恥ずかしいのか、真っ赤に染まる。
「主に逆らうんじゃねぇよ‥‥」
にやりとした笑みと低く迫力のある声に、思わずヤールが固まる。その腕を、大きな手ががしりと掴んだ。有無を言わせずベッドに引きずり寄せ、抱え込む。ここまでされては抵抗するわけにもいかない。ガディザは少年を抱え込んだまま、シーツをたぐり寄せた。
「寒くないか」
「暖かいです‥‥」
厚い胸板、豊かな乳房を背中に感じながら、彼はあっという間に心地よい眠りに落ちてゆく。シファーダを脱走してからここに来るまで気丈に振る舞ってはいたが、疲れは相当なものだろう。静かに寝息を立てるその顔に軽い口づけをし、ガディザも目を閉じた。
* * * * *
「‥‥?」
すうすうと寝息を立てるヤールを抱えたまま眠っていたガディザは、ふと目を覚ました。どこか――階下で、物音がする。ぎしぎしと何かがきしむ音だ。彼女の耳が警戒感もあらわにぴくぴくと動く。そのかすかな動きに気付いたのか、少年もかすかに呻く。
「‥‥どうしたんですか‥‥?」
「物音がする」
言われて、ヤールも耳を澄ます。
「‥‥何の音でしょうか」
「わからな――」
そこまで言いかけた瞬間、響いた。
「あああっ! だめ、だめっ‥‥! お、奥に、当たって、る‥‥!!」
硬直する二人。
「あの声‥‥って‥‥」
「店主、だな‥‥」
思考が停止しているらしく、二人とも表情がない。もちろんそれを気にすることもなく、階下からはさらに激しい喘ぎが響く。先ほどまでは必死に声を押し殺していたのだろうが、もう何の遠慮もない。絶叫が盛大に響き渡る。
「いくいくいくっ‥‥! らーと、らーと‥‥っ!!」
「‥‥そういう仲、だったんですね‥‥あのお二人‥‥」
「‥‥そうらしいな‥‥」
二人は落ち着かない様子でベッドに転がっていたが、一度覚めた意識はそう簡単に眠らない。階下の声は収まるどころか激しさを増すばかり。ぎしぎしがたがたという家具のきしみ、これでもかというほどの嬌声。声を聞かせるためにわざとやっているのではないか、と思うほどの激しさだ。
「‥‥?」
ガディザは訝しげにヤールを見た。背中から抱き寄せられたまま、彼はなにやらもじもじしはじめたのだ。その反応に、ガディザは「ははん」と笑みを浮かべた。従者はと言えば、背後で主がそんな顔をしているとは気付かない。ガディザはそれをいいことに、少年に気付かれないよう、単に彼を抱えなおすだけのようなそぶりで腕を動かした。そして‥‥
「わ、わああっ!?」
「くくっ‥‥なんだ、ガッチガチだな」
いきなり男根を握られ、ヤールは素っ頓狂な声を上げた。恥ずかしさに、顔は耳まで真っ赤に染まる。
「店主の声で興奮したのか?」
「ち、ちが‥‥っ」
「じゃあなんでこうなってるのか説明しろよ‥‥」
耳に息を吹きかけながら、ガディザは楽しそうに彼の高ぶりを嬲る。少し強めに握り、その角度と反りに合わせてしごき上げる。ヤールはと言えば反射的に否定したものの、そんなものは何の意味もない。熱いペニスを手のひらに感じながら、牛人女は徐々に息を荒げていく。そしてついに、シーツを跳ね上げ、体を起こした。
「‥‥俺も我慢できねぇ‥‥。ヤール、来い。久しぶりだからな‥‥なんでもヤらせてやる」
ベッドに腰掛け、興奮を隠しきれない顔のガディザ。逞しい体躯には早くも汗が滲み、その褐色の肌の下に燃え上がる淫欲の激しさを物語っている。元々彼女は好色なのだが、旅の間は宿に泊まるよりも路地の片隅や荷馬車の中で夜を過ごすことのほうが多かったため、その欲求を満たすことができなかったのだ。本来なら今夜も宿の主に遠慮して静かな夜を過ごすはずだったのだが、当の主があの調子なら遠慮も無用というものだ。ヤールが仮にもじもじしていなかったとしても、彼女のほうから襲ったに違いない。
転がり落ちるようにベッドから下りた少年は、大股開きに腰掛けるガディザを前にして硬直していた。視線はガディザの体を舐めるようになぞってゆく。荒々しいながらも整った顔、太く引き締まった首。肉の盛り上がった肩、腕。固く分厚い胸板、その上に実ったたわわな乳房。くっきりと割れた肉厚の腹筋が、呼吸に合わせて動く。大きく開かれた太股の付け根には彼の目を誘う秘肉が息づく。視線はさらに下へと滑り、黒褐色の牛毛に覆われた太い脚、そして蹄へと至る。全身をすべて舐め尽くした視線は、今度は唇、乳房、秘部を順繰りに何度も見つめる。徐々に息が荒くなり、瞳には恥ずかしさではなく燃えさかる情欲が宿る。それを象徴するように、彼の股間が大きく震えた。ガディザはそれを嬉しそうに見つめる。待ちかねる舌先が、ちろりと唇を濡らした。
「眺めてるだけか? したいことがあるならさっさと決めろ。無いなら俺の好きにするぞ」
息を荒げつつ黙っている従者に追い打ちを掛ける。もちろん、彼が黙っているのは特に注文が無いからではなく、ありあまる欲望を選びかねているだけだ。それが分かっているから、余計に彼を焦らせ、悩ませたいのだ。
悩みに悩んだあげく、結局彼は何も口にしなかった。代わりに、その唇をガディザの唇に合わせた。互いに興奮で熱くなった唇をついばみ、甘噛みし、そして舌を突き出しつつ絡める。二人は体格に差がありすぎるため、ガディザはベッドに腰掛けたままなのに、ヤールはベッドに上がらなければ口づけすらままならない。不自然な姿勢のまま、熱烈に唇を貪り合う。それだけで、少年の男根はこれ以上ないほどに反り返り、先端には早くも透明の露を湛えていた。ガディザも従者の唇を楽しみながら、片手でその肉棒を捉え、ゆっくりとしごく。同年代男性としての一般的な大きさを超えたそれは、主の手に愛されることでますますいきり立ってゆく。
「ぷはっ‥‥」
じっくりとしたキスを中断し、ヤールは息を継ぐ。瞳は興奮と快感で早くも蕩けかかっている。
「ガディザ様‥‥お願いがあります‥‥」
*
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