もしもし。お久しぶり。このところずいぶんご無沙汰だったから、もしかして心配させたかな。――そうでもない? 薄情だな、そこはお義理でいいから心配したんだとか言ってくれよ。うん? 声が枯れてる? ああ、ちょっと風邪をこじらせてね。大したことはないんだけど、咳だけがしぶとく残ってて。――ああ、うん。大丈夫だよ。
それはさておき、だ。ご無沙汰してたのは、実は引っ越したからなんだ。事情は省くけど、前に住んでいた場所からちょっと離れたところ移ってね。――え、省くなって? しかたないな。そりゃ確かに、前のマンションは便利な場所にあったよ。でも、今の家と比べると‥‥何ていうか、比べるのもばからしいんだ。あんなの「家」とも言えないよ。あれをありがたがっていたなんて、今となっては自分の目が信じられない。――やめてくれよ、僕があれを自慢してたなんて‥‥そんなゲテモノ好みじゃないったら。
‥‥ずいぶん不審そうだね。そうか、君は新居を知らないからな。ほんと、今の家は美しくて快適、風景も良いし、何の文句もないよ。場所かい? ええと、前の最寄り駅――そうそう、そこだ――あそこから終点まで行って、そこで三八番のバスに乗る。一時間に一本しかないから気をつけて。で、バスに乗って終点で降りる。そこから三十分も歩けば、僕の新居だよ。不便じゃないかって? まあ‥‥そうだね、街に出ようと思えば、多少はね。仕事? ああ、やめた。あんな不便な所にある会社なんて行ってられないよ。幸い、しばらく慎ましく生活する程度ならなんとか足りる程度の貯蓄はあるからね。ちょっと休養してから、家かその近くでできる職を探すつもりなんだ。
――えっ? 大丈夫かって‥‥何がだよ。大丈夫だからこうやって電話を掛けてるんじゃないか。失礼なこと言わないでくれ。君だってこの家の素晴らしさを体験したら、会社なんてやめちまうに決まってるさ。――変? 僕が変!? 何言ってるんだ! 素晴らしい家を手に入れて、そのくつろぎの中にいる心地よさを知らないからそんなこと言うんだろ! ‥‥あ、いや‥‥悪かった、ちょっと喧嘩腰になってしまった。前もこれで失敗したんだ‥‥ああ、ほら、君も知ってる‥‥と思うんだけど、彼女――そうそう。それだ――彼女ともこんなことから喧嘩をしてね、別れたんだよ。ぎすぎすしてた頃だから、ちょっとしたことでお互いの不満が噴出したんだろうね。でも彼女もひどいんだ、僕の家へ来たかと思うといきなり悲鳴を上げるし、そうかと思ったら今度は凄い剣幕で、一分でも早くここを出ろ! とか言うんだよ。宥めようにもぜんぜん聞く耳持たないし。あげく、早く出ないと死んじゃう、とか言って泣き出すし‥‥もう、支離滅裂。理知的な人だと思ってたから僕も好きだったのに‥‥幻滅したね。そりゃ好き嫌いはあるだろうけど、僕がせっかく選んだ新居なのにそんな言い方ってないと思うだろ? ――そう、そうだよ。
ああ、家のことばかりで言い忘れてた。もっと大事なことで、実は‥‥同棲を始めたんだ。‥‥? あー、違う違う。よりを戻したんじゃなくて、別の‥‥。立ち直りが早すぎるって? あはは、それを言われると辛いなあ。恥ずかしいけど、離れられないほど好きなんだ。あっ、待てよ、ちょっとぐらいのろけ話を聞いてくれても良いじゃないか! ――こらこら、茶化すな。え、うん。そうだよ。――け、けっこ‥‥ん‥‥あ‥‥いや‥‥ははは‥‥。とにかく、今は新居と恋人で幸せのまっただ中なんだ。――あはは、そう怒るなよ。うん、――ん。分かった。じゃ、そういうことで。じゃあね。
* * *
温かい部屋の中、男は楽しげに電話を置き、伸びをした。安楽椅子は彼の動きに合わせてしなり、この上もない心地よさで体を支えてくれる。窓の外には木々がざわめき、小鳥が歌う。花畑で遊ぶ可憐な少女たち。
「お友達と、ですか?」
華やかな声が聞こえた。
「うん。小学校以来の友達だよ」
「そうですか。いつか、いらっしゃるかしら」
「どうだろう、忙しそうだから‥‥先のことになるかもね」
その声は特に寂しそうでもない。長い付き合いの友とはいえ、彼にとっては今の生活の満足に比べれば、その友情さえ少々重みを失いつつあった。
「‥‥僕は、君と一緒にいられれば‥‥一緒にこの家に住めれば、他に何もいらないよ」
「ふふ。うれしいです‥‥」
清楚なワンピースに身を包んだ女は、さもうれしそうに微笑み、男の頬に口づけを。二人は抱き合い、いつものように愛を囁き合う。やがて独りでにカーテンが閉まり、階下のグランドピアノが歌い出す。安楽椅子はいつの間にかベッドに変わり、二人の姿は天蓋の中に隠れてゆく。やがて聞こえる衣擦れの音、そして甘い愛の語らい――。
男は囁く。
「愛してる‥‥愛してるよ‥‥」
肉と触手に絡まり、うわごとのように。じゅるじゅるとうごめく触手が、彼の体を這い回る。
『私も‥‥愛してる‥‥くふふ‥‥』
肉の沼の中からずるりと女の姿が現れ、男を抱きしめる。ひどく長い舌が首筋を這い回る。
「あ、ああ‥‥君も‥‥ずいぶん積極的になってきたね」
男は身体をよじり、うれしさ半分、戸惑い半分といった声を漏らす。
『あなたが教えてくれたから‥‥』
心を蕩かす、脳を痺れさせる声。希望通りの言葉を言わせたことに、男の顔が浅ましく引きつる。敢えて似ているものを探せば、その表情は麻薬中毒者のそれだ。女は獰猛な笑みを浮かべながら彼の体に何本もの触手を絡ませる。その先端は皮下に潜り込み、蛇行するいびつな隆起となって浮き上がっている。太いもの、細いもの‥‥それぞれが脈動し、官能の毒液を注ぎ込んでいく。痙攣する体、いきり立つ男根。その先端からどろどろと粘液が溢れ、こぼれていく。それは射精というようなものではない。体の中が溶け、崩れ、性器の先端から溢れているに過ぎない。肉の沼がそれを吸い取り、女の姿の部分が様々に形を変えながら男に絡み付いていく。
「ああ‥‥好きだ‥‥好きだよ‥‥きみと‥‥この家で‥‥ああ‥‥」
『ええ‥‥ずっと一緒に‥‥ふふ‥‥ふふふふ‥‥』
肉の女は男を捕らえ、生気をすする。彼に幸せな夢を見せたまま。
(終)
開店休業を逆手に取った(?)エイプリルフール企画関連ネタ。‥‥これ、「結婚」ネタと言って良いのかな‥‥。