カンラルの女主人

 その青年は暗闇の中にいた。完全な闇の中に押し込まれたまま、できることと言えば自分の体が運ばれていくのを感じることだけだ。彼を閉じこめている箱は、「聖なる棺」と呼ばれている。青銅製のその棺には曲がりくねった意匠が彫刻され、重い蓋には真鍮の浅浮彫りがごてごてと貼り付けられている。牙を剥いた猛獣が、人間を引き裂き、喰らう――様式化されているとはいえ、その描写は「聖なる」と呼ばれる祭具にはいささか不似合いな血生臭さがあった。
 低く唸るような、あるいは吼え猛るような歌声が響く。
 棺を先導する司祭たちが神を讃えているのだ。山々を支配する、荒々しい女神を。その神は獣の姿をしているという。聖なる山・カンラルに坐し、山にまつわるあらゆることを取りはからう偉大な神だ。獣や鳥、木々の主。そして、山からの風、水、霧をも支配する――彼女には様々な名があるが、普通には「カンラルの女主人」として知られている。
 神を崇め、讃え、祝う――山々に寄り添い、その恵みに生きるこの国にあって、神は絶対だ。神の御心を安んじ、山の幸をとこしえに賜るためならば、あらゆることは犠牲にされて然るべき――それは口に出すまでもない、当然のことだった。そう、年に一人や二人の犠牲など、物の数ではない。

* * *

 エカリの息子ヤタが贄になると決まった時、トル=トタルの民は必ずしもそれが不当だとは思わなかった。カンラル山から比較的遠く、牧畜で暮らすこの集落において、神への信仰は極めて篤いというわけではない。カンラルに最も近く祭祀をつかさどるラカ=タルに住まう人間ならば、生け贄になるのは崇高な任務であり喜ぶべきことなのだと言うかも知れないが、トル=トタルの民はそう無邪気ではない。彼らは神の恩恵とやらに直接的に預かっているという気は全くなかったし、そもそも彼らは本来別の神を信じていた。彼らの神は、良き風を運び、牧草を撫で、牛や馬を殖やす牧畜神である。ラカ=タルに服属してからは、トル=トタルの民もカンラルの女神も崇めることになったとはいえ、彼らから見れば、山に坐す獣神はあまりにも血生臭く、素直に崇めようという気にならないのだ。
 そんな彼らにしても、ヤタが贄になっても別に困りはしない、と思っていた。ある村人は「あんな傲慢な者はトル=トタルに要らない」と思っていたし、そこまではっきり言わなくとも、「日頃の不信心の至りだ」と思う者がほとんどだった。すなわちヤタは自らの武勇を誇り、また信心の欠片も持ち合わせていなかった。彼は自分の力を信じていたが、神々や祖霊の大いなる力を信じなかった。信心の多寡が人格判断の重要な部分を占めるこの社会にあって、その傲慢さは整った容姿や無類の勇気をもってしても余りある欠点だった。
 ヤタは贄に選ばれた時、大笑したという。神などいない、神が俺を喰うというのなら俺が神を食い殺してやる、と。

* * *

 棺の中で揺られながら、ヤタはもう一度自分の持ち物を思い返した。隠し持った武器は、目隠しされても使えるほどに扱い慣れている。青銅の短剣にはガラ草の毒をたっぷりと塗った。矢尻に一滴塗っただけで、熊でも仕留められる猛毒だ。
 聞くところによると、神とやらは獣の姿だという。大方、麓にはいないような大型の肉食獣なのだろう。獣なら、殺し方はいくらもある。ことによっては「神」は一匹ではないのかも知れないが、構うことはない。一匹でも殺し、その骸を持って帰れば彼は「神殺し」だ。神を上回る力を得た人間を、ただの人間として扱えるはずがない。すなわち、彼は神と同格以上の存在になれるのだ。彼は神などつゆほども信じていなかったが、自分が神扱いされるかと思うと口元がほころんだ。棺を内側から叩いて、「俺は次の神だ!」と叫びたい衝動に駆られた。司祭の歌がまだ響いている。胸くその悪い、獣神を讃える歌。そんな辛気くさい歌を垂れ流していられるのも今のうちだ、せいぜい喚いておくがいいさ。坂道を揺られながら、彼は心の内で毒づいた。

 祭儀の場所に着くと、神官たちがうやうやしく祈りの言葉を捧げるのが聞こえた。そしてぞろぞろと足音が遠ざかり――歌声も足音も、何の音も聞こえなくなった。
(――どういうことだ‥‥?)
 予想とやや異なる展開だった。彼としては、この場で棺から引き出され、木や台に縛り付けられるか、あるいは殺されるかして、それから神にささげられるだろうと踏んでいたのだ。蓋が開いた瞬間に飛び出そうと構えていたのだが、とんだ肩すかしだ。
 しばらくじっとしていたが、何事も起こりそうになかった。仰向けに寝ころんだまま、蓋を押し上げようとした。重い。動かないわけではなさそうだが、この体勢では難しい。生け贄は棺の中でもぞもぞと動き、うつぶせになると、四肢を踏ん張って背中と頭で蓋を押し上げた。――がくん。鈍い音が響き、蓋がずれるのが分かった。
(――!)
 空気が流れ込む。緊張が走った。――獣の匂いだ。近い。
(狼か、熊か、虎か――違うな)
 種類の見当が付かない。村の平和な仲間たちはいざ知らず、彼は山や荒野を良く知っている。そこに住む獣も、その匂いも。だが、今彼の鼻孔に届いている匂いは経験にないものだった。肉食獣特有の匂い、それは間違いないのだが‥‥。
 わずかに蓋をずらしたまま、彼は息を殺していた。

 沈黙は唐突に破られた。
「いつまでそうしているのかしらねえ‥‥」
「‥‥っ!?」
 その声は予想外に近くから聞こえた。ヤタは蓋の隙間から視線を巡らせる。何も見えない。
「上よ。そんな甲羅を被っていては見えないだろうけど」
 それは女の声だった。しかし、ヤタはそれが人間の声だとは思わなかった。人間――確かに、声も、言葉も、明らかに人間だ。だが、違う。漂う匂いは、断じて人間の体臭ではない。判断材料はほとんどそれだけだったが、彼は確信した。この声の主が、「神」だ。同時に、もう一つを確信した。
 「神」は人であり、獣でもある――肉の体を持っている。つまりは、殺せる。情報はそれで十分だった。
 だが、棺の蓋をのこのこと開けて尊顔を拝謁する気にはなれない。相手は自分を喰おうとしているのだ、背後を取られている以上はうかつに動けない。彼は一計を案じた。単純なことだが。
「大いなる神よ、聖なる山の主よ。私はトル=トタルのヤタ、ラカ=タルの司祭たちにより御贄として遣わされし者にございます。偉大なる神の御口に入らんことは我が身には栄誉の極みなれど、青き銅の蓋は重く、麗しき御顔を拝むこともままなりませぬ」
 慣れない言葉遣いをたどたどしく操り、神のご機嫌を取ろうとする。神は鼻で笑った。
「蓋を開けるのを手伝え、と? くだらないことを言うのね」
(くそっ、さっさと来い!)
 とっ、という軽い音が響いた。木の枝から降りたのだろうか。彼は青銅の蓋を背中で支えながら、必殺の剣を握りしめた。ほとんど音らしい音を立てずにそれは近づいてきた。四本足だろうか、二本足だろうか、それもはっきりしない。まもなく、影が左の隙間からわずかに差し込んできた。そして‥‥手が、蓋の縁に掛けられた。
 見たこともない手だった。形はほとんど人型だったが、薄い灰色の毛皮に覆われていた。毛皮には黒っぽい縞模様が走っていた。これに近い模様があるのは虎だろうか。しかし虎にしては指が長い。
(まだだ――まだ‥‥)
 斬りつけたくなる衝動に駆られる。しかし、今はその瞬間ではない。
 ――ぎり‥‥。獣の指に力が入り、太い爪が飛び出した。そして、蓋が――

*

「あっははははは!! 甘いわねえ‥‥」
「くっ‥‥!!」
 ヤタは右手を押さえて唸った。唸るほか無かった。蓋を開けさせ、無防備な体に剣を突き立てる――単純ながらも合理的な策は完全に破れていた。神は蓋を開けた――持ち上げるのではなく、投げ飛ばして。あわてて飛び出したヤタの剣をあっさりと避け、その手首を殴りつけた。剣ははじき飛ばされ、谷底へと落ちていった。
「ガラ草の匂いがぷんぷんしているじゃない。それで気付かれないとでも?」
 そしてまた神は笑った。空気がびりびりと震えるほどの響きが轟く。野獣の咆哮を間近で聞くような戦慄が走り抜ける。それはまだ「殺気」ではなかった。にもかかわらず、ヤタの動きを止めるほどの威圧感を含んでいた。
 神はひとしきり笑うと、べろりと舌なめずりをした。目が、笑う。ヤタはその目を見なかった。獣と目を合わせることは闘争の合図だ。相手の素性が分からない以上、今すぐに闘争を始めるのは得策ではない。彼は瞬時に相手の能力を探りにかかった。
 今は二本足で立っているが、その手は「前足」にかなり近い。おそらく、四足で走った方が速いだろう。身の丈は自分よりも遥かに高い――巨体と言っていい。腕も脚も長い。虎のような毛皮に覆われ、筋肉がごつごつと盛り上がった肩から伸びる腕は人間よりもずっと太い――鋭い爪も相まって、あれで殴られればそれだけで殺されかねない。首、腕、胴、腹、脚――ありとあらゆる部分に逞しい肉が付いている。まさしく、猛獣だ。獲物を狩り、喰らうための体。笑うときに覗いた牙も、その象徴だ。
 しかし、似つかわしくない部分もあった。厚さを感じさせる胸板に、大きな膨らみがある。乳房だ。それはかなりの大きさであり、なおかつ形も良い。一対の大きな乳房の下に並んで、もう一対小ぶりの乳房があった。そして、顔――声や乳房と同じく、それもまさしく女のものだ。他の部分と同じく半ば近くが毛皮に覆われているが、その顔は美女といって全く差し支えがない。量感のある長い銀髪が風に靡き、獰猛な美貌を際だたせた。
(化け物のくせに‥‥獣のくせに‥‥。人間なら犯してやるところだ)
 相手の特性を二、三秒で掴んだが、その場違いに女らしい部分はヤタの別の本能をくすぐる。下腹部に血が集まったわけでもないが、そのわずかな興奮によって体臭が変わったのだろうか。神は獰猛な、しかし妖艶な笑みを浮かべる。
「うふふ‥‥元気な男は好きよ。さあ‥‥食べてあげる」
 ヤタの算段に構わず、神は飛びかかった。

 ヤタは逃げた。木々の狭い間を抜け、あるいは蔓植物にぶら下がって振り子のように使い、必死に距離を稼ぐ。だが、それは一時しのぎにしかならなかった。神にとって、この山は庭のようなものだ。距離を取ったつもりが、あっという間に詰められる。それでも、彼は神殺しを諦めなかった。飛びかかってくるのを逆に利用して崖から落とそうとし、あるいは岩を落とし、あるいは蔓を罠にした。しかしいずれも足止めにさえならなかった。神は猛獣だったが、ヤタと同等以上の知能があった。猛獣狩りで鍛えた技能は通じない。人間相手に鍛えた力は――通じるだろうか?

 どれだけ走っただろうか。もう、彼は逃げるのを諦めた。
「神――お前を‥‥殺すっ!」
 自分自身に宣言するように、叫んだ。
 ――もう逃げるのはやめだ。罠もやめだ。俺は、俺の力でお前を殺す。
(やれるものなら、やってみれば?)
 女神は豹のように疾走しながら笑みを浮かべた。金色の目が、彼を射抜く。笑いながら、睨みながら、神はあざける。
 獣神は逞しくもしなやかな体を弓のようにしならせ、まるで跳ぶように、全身をばねにして走る。強靱な脚が倒木を蹴った。

 首をめがけ、爪が殺到する。ヤタは極限までそれを引きつけた。時間が粘るかのように遅く感じらる。矢さえよけられる――彼はそれだけの自信があった。にもかかわらず、爪は猛烈な勢いで迫る。当たる! ――その瞬間、まさにその瞬間に彼の裏拳が唸った。太い腕が辛うじて軌道を変える。勢い余った巨体が一気に彼へ飛び込――
 ダンッ!
 地を踏み割らんばかりに踏み込む。肩が女の胸の谷間に吸い込まれた。ズシン、と手ごたえ。
「がふっ!」
 頭上で息を吐く音が響く。臂を腹へと叩き込む。分厚い筋肉もその勢いを完全に殺すことはできない。女の動きが一気に鈍った。がはっ、という喘ぎとともに唾が彼の背中に掛かった。
(いける!)
 前へのめった顎を掌底で打ち上げ、拳で首を横ざまに殴りつける。拳を振り抜き、その回転を利用して回し蹴りを放つ。見事に決まった。
「ぐぁっ!!」
 しかし悲鳴を上げたのはヤタだった。人間相手なら確実に頸椎を折ったはずの足首が、女の手中に捕らえられていたのだ。驚異的な反射と言うほかなかった。勢い余った彼は地面に倒れ、無様にはいつくばった。
「やってくれるじゃないの‥‥少しは痛かったわ」
 唇の端に血を滲ませながらも、女神はにたりと嗤った。もちろんヤタもじっとしてはいない。手近な石を投げつける――わずかでも気が逸れれば、その隙に脚をふりほどく算段だった。だがそれも無駄な試みに終わった。目を狙ったつぶては首を傾けるだけの動きでかわされた。同時に、ぼぎん、という鈍い音とともに足首は握りつぶされた。――悲鳴。反射的に暴れる左足も、右脚と同じように捕らえられた。折られた。戦士の誇りもかなぐり捨て、這って逃げようとする手――女神はそれも握りつぶした。もはや運命は潰えていた。神殺しなど考えたのが悪かったのか、それとも村人たちの言うとおり、不信心の罰なのか。弱き者のざれ言、と今まで軽蔑していたはずの感情――恐怖、後悔、絶望――それらが彼を押しつぶそうと迫ってくる。それでも、彼は獣神をにらみつけた。

* *

 ヤタは押し倒されたまま、身動きができずにいた。敵意をむき出しにしつつも苦悶に歪むその顔を、神がにたにたと眺めている。いやに紅い唇を歪め、牙を覗かせて。女の姿をしてはいても、その表情は肉食獣以外の何者でもない。
「どうしたのかしらねえ‥‥くくっ‥‥私を殺すんでしょう? 殺して神になるつもりだったのかしら?」
 べろり。ざらつく舌が、彼の頬を舐め上げた。
「人間風情が‥‥こんなに脆いくせに、神になれるとでも‥‥?」
 耳元で言葉を発する。睦言を囁くような、穏やかな声だった。しかし、それを聴き終えた瞬間、彼は耳に激烈な熱さを感じた。
「ぐうっ!?」
 側頭部から頬まで焼かれたかのような凄まじい灼熱。それが傷みだと気付くまで、どれだけかかっただろうか。ほんの一瞬だったのか、それとも数秒か。
「いい声じゃない‥‥」
 耳を食いちぎった女神は、それをしばし咀嚼するとごくりと呑み込んだ。喉がそれにあわせて動く。口元に付いた血を、紅い舌がちろりと舐め取った。顔は上気し、その瞳から知性の色は徐々に少なくなってゆく。ぺろり、と舌なめずりをすると、苦痛に歪んだヤタに顔を近づける。
「いくら強くても、お前は人間よ。追いかけっこや殴り合いに付き合ってあげたのはほんのお遊び――私は山の主、お前を殺すだけなら簡単なこと。さあ‥‥私への供物なんだから‥‥大人しく食べられなさい」
 優しく微笑む母のように、神は言った。
「なに、が、神だっ‥‥化け物が‥‥っ!」
「同じことよ」
 必死の挑発をさらりと受け流す。同時に、ヤタの肩に食らいついた。太い牙が深々と食い込み、肉の繊維をぶちぶちと引き裂いてゆく。逞しい首、背がうねり、頭ごとの動きで肉がちぎり取られた。鮮血が迸る。喉を搾るような叫びが林に響いた。
「ああ‥‥美味しいわ‥‥。最近の贄は脂が多いのだけど、お前は違うようね。はぁ‥‥もっと食べたい‥‥他の肉はどうなの‥‥?」
 欲情したかのようにうっとりと微笑み、神はヤタの右腕を掴んだ。肩肉を食いちぎられたせいで、もう動くことはない。弛緩した上腕に、神がかぶりつく。勢い良く千切られ、かつて見事な力こぶを作っていた部分が無くなった。白い骨が露出し、腱と肉がこびりついているのが見えた。
「美味しい、たまらない‥‥。固くて、詰まっていて‥‥」
 今度は爪が胸板に突き刺さった。鋭い呻きが漏れる。それを楽しそうに聞き届け、神は一気に腕を引いた。ばりばりと肉が切り裂かれる。ささくれた部分に、神は顔を押しつけて牙を食い込ませ、肉を剥がすように食い切った。
「ぐぉおああああっ!!」
 絶叫が響く。それが心地よい音楽に聞こえるのだろう、ぐちゃぐちゃと肉を噛みながら、女神は男にのしかかったまま陶酔した笑みを浮かべている。口の端から命の色がだらだらと流れる。その液体は整った顎を流れ落ち、太い首筋を伝って鎖骨へこぼれた。彼女はその液体を胸に塗りつけた。溢れ出た命を、命と豊穣を象徴する部分に塗りたくる。鉄さびの匂いがさらに際だち、失血による寒さで震える男の鼻を突いた。
「美味しいわ、お前の肉‥‥。せっかくのごちそうをくれたお返しをしてあげる。神様からの贈り物よ、ありがたく受け取りなさい‥‥」
 神はねっとりとそう言い、どくどくと鮮血を垂れ流す肩口に指先を浸す。真っ赤に塗れたその指を――無造作に、微塵の手加減もなくヤタの肛門にねじ込んだ。
「ぐぉ‥‥っ!?」
 尻に熱い違和感が突き刺さる。太い指先は器用に動き回り、彼の粘膜を蹂躙する。訳の分からない感触に、苦痛も忘れて彼は呻いた。
「ふふふ‥‥気付いているかしら? お前のここ‥‥くくくっ‥‥」
 そう言われ、激痛に苦しみながらも彼は頭を上げた。
 ――信じられなかった。彼の男根がむくむくと鎌首をもたげ、そそり立っていた。両手両足を潰され、片耳と肩と腕の半ばを食いちぎられ、胸を切り裂かれ、寒さに震えているというのに――その棍棒は、彼の自慢だった棍棒は嬉々として立ち上がっていた。その幹に、女の顔が近付く。牙を覗かせてにたりと笑い、舌先でべろんと一気に舐め上げる。そのざらつく感触に、生命の象徴はびくびくと跳ねた。
「私の一部になる前に、こっちも食べてあげる‥‥光栄に思いなさい」
 その声はまるで娼婦のようだった。艶然としていながら、慈愛溢れるかのように微笑む。だが、彼の体を押さえつけるのは筋骨隆々の猛獣なのだ。太い腕、盛り上がった肩、首筋。人間相手なら内臓をつぶせる彼の臂打ちを、余裕をもって受け止めた腹筋――その肉が、割れ目を見せつけるようにうねった。そして、それらの荒々しさと対照的な乳房が、彼の頭上にある。この期に及んで、彼の脳裏に浮かぶ印象があった。
(こいつが人間なら――揉んでやりたい)
 女は好きだった。柔らかい肌に触れているだけで気持ちが安らぐ。愛撫に応える甘い声、絡み付く肢体――もう、二度と味わえないだろうが。自分を喰らおうとしている獣神を前にして、命を垂れ流しながら情欲を思い出すとは。
 贄の自嘲気味の感慨など気に留めず、神がのしかかる。指先で自ら股間をまさぐり、雌肉を開いた。毛皮の中から現れたそこから、熱い体液が糸を引いて落ちる。強烈な淫臭、獣臭が立ちこめた。
「ああ‥‥あはぅ‥‥っ」
 彼の体は最後の火花を散らすつもりなのだろうか、重傷を負いながらもそれが限界まで張り詰め、反り返っている。その高ぶりを、神は一気に呑み込んだ。漏れ出る喘ぎ。
「くふ‥‥ここは元気ね‥‥。さあ、楽しませなさい」
 身をかがめ、贄の頬をべろりとなめる。ヤスリのような舌に皮膚が削られ、血が滲んだ。

* * *

「ぐぅっ‥‥あ、あぐぅっ‥‥」
 男は呻く。それが苦悶によるものなのか、それとも快感によるものなのか――彼にはもはや区別が付かなかった。女神は名器の持ち主だった。体格がこれほど異なるにもかかわらず、彼の雄物を呑み込み、締め付ける。そして荒々しい、野生の腰使いで彼を攻め立てる。やや濁った愛液がどろどろと溢れ、熱い雌肉がぎりぎりと締め付ける。神が腰を浮かせるたびに、逸物が根元から持って行かれそうな感覚に襲われる。
「ああ、ああぅ‥‥いいわ、ふふ、たまらない‥‥。お前のこれ、エラが張ってて‥‥っ、えぐれる‥‥あおぉおおっ!!」
 髪を跳ね上げ、悶える。その拍子に、またしても爪が胸に食い込む。血が流れる。苦悶に歪む顔を嬉しそうに眺め、挑発的に、貪るように腰を弾ませる。咆哮を上げながら、獣神は悶え続ける。
 ――美しい。
 振り乱される髪が、飛び散る汗が、悦楽に歪む顔が。うねる肉体が、弾む乳房が、汗ばむ毛皮が――それらすべてが、美しい。
 ヤタは一瞬、そう思ってしまった。だが、すぐにその思いをかき消した。何が美しいものか。人と獣を悪趣味に混ぜ合わせたような、奇怪な化け物ではないか。自分を喰おうとしている、たかが獣だ。
 しかし、その獣に一矢報いることはもはやできそうにない。自慢の筋力を生み出していた腕も脚も、もはやまともに動く状態ではない。
「ハァ、ハァ、‥‥最初の元気はどこへいったの? ほら、抵抗しなさい。その方が楽しいわ‥‥」
「く‥‥っ」
 歯がみをしながら、もがく。しかし、血を失いすぎている。無様に脚を動かす以外、もはや何もできない。
「あ、ああぅっ! そうよ、そう、もがきなさい‥‥ああ、当たる‥‥!」
 ヤタがなけなしの抵抗をするたびに、神はよがり声を上げる。自分の抵抗がもはや愛撫に過ぎないことを知り、彼は愕然とした。それでも動いた。それは戦士としての矜恃だった。獣に、敵に、されるがままにいたぶられるなど許せなかった。それが相手の喜ぶことであろうと、もがき、暴れることだけが彼に残された誇りの表明なのだ。
 しかし神がそんな事情など気にするはずもない。ヤタが不格好にもがくたびに、喘ぎはさらに甲高くなる。
「いい、いいっ‥‥! ほら、もがけ、動くのよ‥‥あおぉおおっ!! はぁあっ、かはっ、抵抗しろ、ほら、あぁああっ!!」
 膝で蹴りつけようともがく。巨体を振り落とそうと、体を揺する。むなしい抵抗――いや、もはや愛撫だろうか? それが続き、神は叫び続ける。そして。
「くぁあぁ、あ、あ、あ、ああああぁぁ――っ!!」
 それは雄叫びだった。大地を揺るがす咆哮となり、林に響き渡る。耳を聾せんばかりの歓喜の絶叫を上げ、神は達した。壮絶なまでの絶頂だった。男根を締めつぶさんばかりの雌肉に、溶岩のような熱さが贄の全身を焼き尽くす。雌神の雄叫びにかき消されはしたが、彼もまた絶頂の呻きを上げた。間欠泉のように命の液体を吹き上げつつ、彼は自分の体が、そして心が、ついに神に屈したことを知った。

「ハァァ‥‥ハァァ‥‥ハァァ‥‥ッ」
 手を地面に突いたまま、獣神は荒い息を立てていた。半開きになった口からよだれがぼたぼたと垂れ、血だまりにこぼれた。体は汗と血にまみれ、それが体温に熱せられて湯気を立てんばかりになっていた。むせかえるような体臭、獣臭。
「なかなか、良かったわ‥‥。じゃあ、供物は最後まで受け取らないとね‥‥」
 神は大きく口を開いた。獣が獲物を喰らう時の表情そのものだった。限界まで口を開き、牙と歯茎が露出した。そして体を反らせる。逞しい腕に押さえ込まれたまま、ヤタは霞む目で神を見た。美しかった。隆起した筋肉も、体に食い込む爪も、豊満な乳房も、何もかもが凄絶なまでに神々しかった。もう、その思いをかき消すことはできなかった。
(これが、神――)
 縦長の瞳孔が迫った。整った顔が、獰猛な顔が、一気に近づいた。嬉しかった。のど笛がかみ砕かれ、引き裂かれる音が骨を伝って聞こえた。彼は何事かを言ったようだったが、もうその口から音を伴った空気が出ることはなかった。ぶちぶちと肉が引きちぎられてゆく。動脈が破れ、噴き上げる血で女神の美貌も体も瞬時に赤く染まった。首に続いて、肩や胸から次々に肉が貪り喰われてゆく。細い骨はそのまま噛み砕かれ、肉と共に喰われた。大きな骨からは、ざらつく舌が肉をこそぎ落とした。神はヤタの上半身の肉を引き裂き終わると、腹や臓物を喰うために腰を上げた。その拍子に、それまで肉穴にずっぽりとはまりこんでいた男根が、ずるりと抜けた。白い液体が、男の最後の命がぼたぼたと溢れる。その肉棒は、主を失ってなお不思議なまでに固さを保っていた――。

* * *

 数日後、司祭たちは聖なる棺を回収にやってきた。棺の側には、砕けた頭蓋骨と、わずかに肉の残った骨が無造作に転がっていた。神のおこぼれに預かった獣や鳥により、肉も皮もほとんど残っていない。しかし、骨に残された爪や牙の跡から、司祭たちは肉の大半が何の胃袋に収まったのか一目で察した。
「此度はことのほかご満足いただけたようですな」
 下級司祭たちが棺を輿に乗せるのを眺めながら、銀の胸飾りを下げた司祭は、金の胸飾りを付けた司祭に囁いた。
「うむ。これで我らも穏やかな冬を迎えられよう‥‥」
 白い眉に隠れがちな目をしばたたかせ、老司祭は感慨深げに頷く。そして棺の準備ができたことを確認すると、錫杖をかかげ、三度振った。鈴の音が朝霧の中に響き渡る。余韻が消えると同時に、司祭たちは唱和した。
「「カンラルの女主人に栄えあれ。風と水に、草と木に、人と獣に大いなる加護のあらんことを」」
 そのようにうやうやしく唱えると、老司祭を先頭にして急峻な山道を下りていった。白い衣が連なる光景は紐のようだった。獣のような、唸るような、吼え猛るような歌を唄いながら、その紐は細くなり、消えていった。

* * *

 トル=トタルのヤタが捧げられてから十年ほどが経った頃、カンラル山から一人の少年が下りてきた。常人とは異なる、とてつもない力の持ち主だった。彼は神の御子だとされ、養育は司祭の手にゆだねられた。後年、祭祀と王権を手にした彼は周囲の国々を平らげ、英雄と讃えられた。その在世の時は万事が神の厚い加護を受けていたといい、聖なる山の威光はさらに輝いた。

 ――カンラルへの供物は、今も絶えない。

(終)

漫画版『荒野に獣慟哭す』を読み,迷企羅姐さんに魂を引っこ抜かれた勢いで書いた一品。イートミー全開。複乳を生かせなかったのはもったいなかった。

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