ささがにの糸

 バシャッ!!
「うわっ! ‥‥ばかやろー、ちゃんと見て運転しろ!!」
 男の怒号にはもちろん何の反応も見せず、車が去っていく。
「くっそー‥‥泥だらけ‥‥」
 気合いを入れて着ていたらしい二流ブランド物スーツには泥水がはね、盛大に汚れていた。
「ハァ。ついてねぇー‥‥」
 その通り。彼、すなわち大森秋人(あきと)にとって今日はろくでもない一日だった。起き抜けに素足でゴキブリを踏んづけ、電車が遅れて遅刻し、まとまるはずの商談がご破算になって上司に絞られ、学生時代から付き合っていた恋人に振られ、だめ押しに泥はね。憂さ晴らしに風俗にでも行こうかとも思っていたが、泥だらけになってしまってはそれもかなわないだろう。
(まるで誰かの陰謀じゃないか)
 いかにも駄目な大衆らしい独り言をいう。もちろん、ただの下っ端会社員を罠に掛けたところで何にも搾り取れないことは彼自身も分かっていたが。
 頭の悪い陰謀論はさておくとして、冷静に考えると実際、困った事態だった。これではタクシーにも乗れない。駅は遠い。バスは――最終が出たところ。半端な地方都市にありがちな、まさしく困った事態といえよう。
「 ク リ ー ニ ン グ 代 を 出 せ ー !!」
 住宅街の迷惑も顧みず、とりあえず鬱憤晴らしのためだけに叫んでみる。‥‥心に季節外れの秋風が吹いた。

「お困り‥‥ですか?」
「うわっ!」
 突如、彼の後ろから女の声が。
「あの、クリーニング代が、とか言っておられたので‥‥。あら、ステキなスーツが台無しですね」
 その女はOL風といった様相だった。ダークグレーのスーツと機能的なバッグを身にまとい、背中まであるストレートの髪は今時珍しいほどの「緑の黒髪」。暗がりのせいで顔ははっきりしないが、控えめに見ても標準以上の容貌を感じさせる。
「あ、こ、こりゃどうも。‥‥ええ、さっき泥はねをくらいまして。振り向きもしないで行っちゃったんですよ最近のドライバーはマナーがなってないですねハハハ」
 滑稽なほどにあわてながら、秋人は情けない事情を開陳した。見知らぬ美人を前にすると緊張のせいで饒舌になるのが彼の常だ。
「あの‥‥よろしければ、うちへいらっしゃいますか? そんな汚れではお宅へ帰るのも大変でしょう?」
「え‥‥」
 なんだなんだ、どういうことだ。女性が男を家へ誘うなんて不用心にも程が‥‥ああそうか、家族もいるのかな。お父さんのスーツを貸してくれるとか。
 それに、暗くてよくは見えないけど、かなりの美人と見た。上手く行けば‥‥いやいや、親切心に下心を持っちゃだめだ。
「あ、いや、ならお言葉に甘えて‥‥」
 下心を持っちゃだめもなにも、秋人の口から出た言葉は下心にしっかり裏打ちされたものだった。
「分かりました。私の家、この近くなんです」
 一瞬の逡巡に気付いてか、くすりと笑うと彼女は歩き始めた。繊細な黒髪が夜風に舞い、女の香りを放つ。
 とりとめもない会話をぎこちなく交わしていたが、男の視線は豊かな髪、くびれた腰、白い脚に釘付けになっている。彼女の方はそれを知ってか知らずか、ときおり髪をかき上げ、横目で視線を向けながら話に付き合っていた。ときおり自らの魅力と男の心を知り尽くしているような笑みを見せることがあったが、秋人がそれに気付く瞬間には、それまでの清潔感溢れる微笑を浮かべる。
 と、彼はちょっとしたことに気が付いた。
「あ、ちょっとまって。背中に‥‥よいしょ」
 秋人は女の背中に小さな蜘蛛を見つけ、それをつまんで捨てる。
「蜘蛛がついてたんですよ、こんな小さな奴ですけど」
「あら、ありがとうございます。蜘蛛、ですか。
――わが背子(せこ)が来べき宵なりささがにの 蜘蛛のふるまひかねてしるしも――
ふふっ、この和歌、ご存じですか?」
 突然、流れるように和歌を口ずさむ。あまりの唐突さに面食らわずにいられない。
「ささがに、ええとつまり蜘蛛は恋人が来るのを教えてくれる、っていう言い伝えが昔はあったんですよ。不思議な虫だ、ってことなんでしょうね」
 そう言ってまた笑顔を見せる。高校時代、古文の成績が「2」だった秋人は思わずうつむいてしまった。

* * * * * *

「こんなところにマンションなんてあったのか‥‥」
「最近できたんですよ。‥‥どうぞ」
 彼女は駐車場側出入り口の鍵を開けると、泥水まみれの青年を中に招いた。階段を上がる足音がこつこつと響く。通路に並ぶ家々からは明かりもなく、不思議なほどに静かだ。
「ここです‥‥ちょっと待ってくださいね」
(‥‥部屋に明かりがついてないぞ。ということは‥‥)
 ということは、一人暮らしだ。好意を受けながらも邪な期待に胸がふくらむのは男の性だろうか。
「はい、どうぞ。狭いですけど」
「ど、どうも‥‥おじゃまします」
 女性らしいこぎれいな部屋は秋人のあまり知らない世界だが、どうも生活感に欠ける印象があった。きれい好きな若い女性の部屋、というのはこんなものなのだろうか。
「替えの服を出しときますから、シャワーでもしますか?」
「‥‥いいんですか?」
 秋人がお人好しでスケベなのは仕方がないとはいえ、それでもさすがにうますぎる展開には警戒してしまう。
「ええ、お気遣いなく」
 微笑む彼女の唇に、邪悪な何かが秘められているように感じたのは勘ぐりのしすぎだったろうか。

 シャワーを終えると、脱衣場にはぱりっとしたスーツが用意されていた。不思議にサイズもぴったりだ。彼女の父親や恋人が住んでいる様子もなく、そもそも生活感を感じさせない住まいに男物のスーツがあり、しかも自分のためにあつらえたかのように着心地が良い。ここに至っても不審を抱かなければただのバカだが、かといっていかなる「陰謀」が企てられているのか、それを合理的に説明することは秋人でなくともできそうにない。

「どうですか、サイズは合います?」
 彼女も着替えたと見え、ラフな格好になっている。V字に切れ込んだ襟元から、スーツ姿では分からなかった見事な谷間が視線を誘う。
「あ、ええ、ぴったり‥‥それより‥‥」
「どうしてうちに男物のスーツがあるんだ、ってことですか?」
「‥‥」
「教えてあげますけど‥‥ちょっと耳を貸してくださいね」
 彼女の綺麗な顔が近付き、香しい髪が鼻孔をくすぐり、しなやかな腕が首に絡み付き、豊かな胸が押しつけられ‥‥
 ガリッ!
「うわっ!!」
 首筋に突如起きた激痛に、秋人は女を突き飛ばした。
「あん‥‥抵抗するの‥‥? おかげでちゃんと噛めなかったわ」
 彼女の顔つきが清楚なそれから狂暴さを帯びたものへと変わりゆき、その声もまたドロリとした艶を帯び始めていた。反射的に首筋に手をやると、指先にべったりと赤いぬめり。
「あ、あんた、いったい何を‥‥!」
「んふふ‥‥巣に掛かった以上は教えてあげるわ‥‥私の本当の姿を‥‥」
 低くそう言ってぞんざいに服を脱ぎ捨てると、彼女の身体に変化が起きた。下半身が大きくふくれあがり、左右の脚がつながり、伸び、玉のように膨らみ、節くれ立った細い棒が蠢き‥‥。

 蜘蛛だった。
 上半身は妖しく美しい女の姿を保ったまま、その下半身は、ひくひくと蠕動する蜘蛛のそれになりかわっていた。
「ひっ‥‥!! ば、化け物!! 来るな、うわああっ!!」
 床にへたり込み、後ずさりをしながら何とか距離を保とうと逃げ始める秋人。蜘蛛女はそれを見ながら、指先で紅い唇をなぞった。
「ふふふ‥‥一気に食べちゃうのはもったいないから、少しだけ遊びましょ。五つ数えるあいだ、待ってあげる。んっふふふ‥‥準備はいい? じゃあ‥‥ひとーつ‥‥ふたぁつ‥‥ふふ‥‥」

 怪物がわざとゆっくりと数え始めると同時に、秋人は死にものぐるいで逃げ出した。靴も履かずに、ただひたすらに逃げることだけを考えて。何度も転びそうになりながらドアへと殺到し、通路へ飛び出し――瞬間、彼は怪物の一言を思い知った。『巣に掛かった以上は教えてあげるわ』――飛び出した先に通路はなかった。代わりに、マンションとは似ても似つかない、廃ビルの荒涼とした風景があった。
「うああああぁぁ!!」
 それでも走った。意味をなさない悲鳴を上げながら、下への階段を探し、つんのめりながら駆け下り、一階へ。

「‥‥よぉっつ‥‥いつつ! はぁい、もういいかしらぁ?」
 ねちりと粘液質の笑みを浮かべると、彼女はひとり楽しげに舌なめずりをした。八本の脚を音もなく滑らせ、開け放たれたドアをくぐると、今度はその脚のうち前の二本をクイクイと動かし、見えない何かに触れるような仕草をする。
「くふふ‥‥一階ね。あはは、出口が閉まってるから慌てているのね‥‥かわいいわぁ」
 そして影のように走った。

「くそっ! 開け、開いてくれ!!」
 一階出口は無情にもシャッターで閉ざされていた。半狂乱になった秋人は何度も体当たりを繰り返すが、その程度の衝撃で破れる様子はない。
「他に出口‥‥窓、窓は!?」
 窓はしかし、すべて木で打ち付けられている。が、鍵の掛かった防犯シャッターよりは与しやすいかも知れない。手近にあったパイプ椅子で殴りつけ、死にものぐるいで板を叩き壊す。ガラスの破片が飛び散り顔や身体は傷だらけになるが、そんなことに構うことなくひたすらに椅子を振るう。
 バキッ、ベキッ――バキィッ!!
「やった!!」
 渾身の一撃で板は外れ、脱出口が開かれ、身を乗り出し――
「ひっ! な、なんだこれ!?」
 その窓の向こうには網があった。何もないと思っていた空間には、ほとんど見えない糸が隙間無く張り巡らされていた。引き破ろうとしても破れない。突き破ることもかなわない。

 カサッ。
「!」
 血走った目で振り返る。
 暗闇には何も見えないが、圧倒的な存在感は「それ」が近くにいることを知らせている。足下には歪んだパイプ椅子が、見えない糸でふさがれた窓からの月光に照らされていた。秋人は最小限の動きでそれを手にし、身構えた。勝算があってではない。そうしなければ正気を保てなかったからだ。

 カサッ。
 今度は別方向に。秋人の首は反射的にそちらを向く。人間の反射速度はこれほどか、と思わせるほどの正確さで。だが、そこにも何も見えなかった。
(どこだ、化け物‥‥)
「こ・こ・よ」
 蠱惑的に響いた声に驚くこともできないまま、彼は床に叩きつけられた。
 ガシャァン‥‥
 パイプ椅子がどこかに落ちる音。
「あ、あ‥‥! た、助け――ぎぃっ‥‥!」
 這いつくばり、逃げ出そうと虫のようにもがく。しかし、鋭く尖った脚がそれを許さなかった。首を無理にねじ曲げて振り向くと、黒い鉄杭のような脚が背中を押さえつけていた。そしてその向こうにはざわめく脚と不気味にふくれあがった腹。
「うっふふふ‥‥捕まえた。もう逃げられない、もう助からない。安心して、私から逃げられた男はいないのよ。さぁ、食べてあげるわね‥‥」
 睦言を紡ぐかのように甘い声で死を囁きながら、蜘蛛女は節のある足を四本、器用に操って秋人の身体を持ち上げた。そしてその体を人間のままの両腕で抱きしめ、牙の覗く唇で男の唇をふさぐ。蒼白い月光に照らされたその様は、例えようもなくロマンチックだったろう――女の上半身だけ見ていれば、男の顔が恐怖に引きつっていなければ。
 抵抗しようともがこうにも、脚の一本で尾部をさすったかと思うと、ひとまとめにした両手首の周りをその脚でくるくると回し、それきり腕は動かなくなってしまった。糸で絡められてしまったのだろう。それに気付く頃には足も同じ運命をたどっていた。
「そんなに怖がらなくてもいいわ‥‥たぁっぷり楽しませてあげるから」
 鋭い足先が襟元に引っかかった瞬間、秋人は目を固く閉じた。同時に、服は股下まで一気に引き裂かれた。蜘蛛女は秋人の身体を舐めるように見つめると、その視線がある一点で留まる。
「ふぅん、ずいぶん立派ねぇ。並の男よりかなり大きいんじゃない?」
 股間のしおれた逸物に目を細め、
「‥‥でも萎えてちゃ楽しめないわね。うふふ、すぐにカタくしてあげる」
 彼女は男の身体を降ろすと、脚先でその裏筋をカリリとなぞる。肛門の手前から亀頭の先まで、軽くひっかくように。秋人の身体はそれに合わせてびくりと震えた。蜘蛛の体に対する生理的な嫌悪、昔話のような化け物に喰われるという恐怖、そういった感情だけでは説明できない反応。その反応に唇をにぃっと歪めると、蜘蛛女は自らの胸を淫らに揉みしだきながら、爪先での行為を繰り返した。そのたびに秋人の身体はびくっと震え、その性器は確実に大きさを増してゆく。
「ふふふふふ‥‥。化け物に嬲られて勃たせるの? 浅ましいわねぇ。でもそれがオトコ、よね。大丈夫よ、限界まで感じさせてあげるから‥‥」
 十分に勃起したことを確認し一対の脚で巧みにしごき上げながら、さもバカにしたような口調で挑発する。天を突くようにいきり立った肉の棒を自在に這い回り、ますます快楽と屈辱を誘うその刺激は、硬く無機質な外皮によるものとは思えないほど繊細だった。思わず苦悶でも悲鳴でもない声を上げそうになる。
「そんなに必死に目を閉じて、声も我慢して‥‥それで耐えてるつもり? のどまで喘ぎ声が出かかっておきながら、腰をビクビクさせて我慢汁垂れ流しながら、それで感じてないつもりなの?」
 豊かで美しい乳房を胸板にこすりつけながら、妖女は甘く、淫らに、だが冷たくクスクスと笑った。
「やめろ、もうやめてくれ、ひと思いに殺してくれ!」
 固く視界を閉ざしたまま、秋人は何とかして人間としての尊厳を保とうとした。だが怪物の返答は非情なものだった。
「っくくく‥‥何を言ってるのかしらぁ? この程度で『殺してくれ』? あっはははは、分かってない、全然分かってないわねぇ。シゴいただけでそんなセリフが出てくるんだったら、私の膣(なか)は耐えられないわよぉ? ふふふふ、そんなに気持ちいいんだったら、もぉっと感じさせてあげる。おいで、私の中へ‥‥」
 耳元でねっとりと囁く声に、秋人は事態がますます悪化したことを悟った。
(‥‥化け物の「中」? 冗談じゃない、なんでこんな蜘蛛の化け物と‥‥!)
 しかしそんな内心とは関わりなく、蜘蛛女がその言葉を実行に移すつもりであることは雰囲気からありありと察せられた。硬質の爪ではなく、人間と同じ形の指先が男根を捉え、今度は自分の身体が宙に持ち上げられるのを知った。そしてそのまま硬い脚で抱き寄せられると、不意に亀頭に熱く湿った感触を感じた。
「ひぃっ! やめてくれぇっ!!」
 それが何であるかは視覚に頼るまでもなく分かっている。蜘蛛女の「中」への入り口なのだろう。節足動物と哺乳類が組み合わさったグロテスクな化け物の、性器。そこへ自分が飲み込まれようとしている。だが、相変わらず手も足も動かず、芋虫のように身体をよじることさえままならない。
「やめ――!」
 ――ぢゅぐっ。
「ひぎっ‥‥ぐああああ!!」

 湿った音と共に、廃ビルに男の悲鳴が響く。全裸の男が蜘蛛の怪物に抱きしめられ、その太く硬い肉質の棒は女の半身と蜘蛛の半身との境界近くにある肉の裂け目に突き刺さっている。その手は頭上で固められ、その口は舌を突き出し、その目は虚空を見つめ、その身体はビクビクと痙攣していた。
「んあっ‥‥あぁん‥‥。ふふ‥‥イったの? 早いわ‥‥でもそれでいいのよ。たくさんイって、あなたの命、全部注ぎ込んで‥‥ほらぁっ!」
 女の腕と蜘蛛の脚でその腰を密着させる。瞬間、秋人の身体はまたしても硬直し、今度は繋がっている部分から白い粘液が滴り落ちた。
「かはっ‥‥ひぃ‥‥」
「ああ‥‥あはぁ‥‥。イイわ、あなた。人間にしてはすごく立派よ‥‥私まで感じそう‥‥。くふふ‥‥このまま喰い殺すのはもったいないかしら‥‥?」
 上気した化生の美貌が口にした言葉は秋人に期待を持たせて良いはずのものだったが、彼はそれに気付かなかった。いや、その声さえ認識できなかった。蜘蛛女の膣が与える刺激は、彼女の言葉通り、いや、それを遥かに超える快楽を秋人に叩き込んでくる。
 その性器は形こそ人間と同じだったが、機能は全く異なっていた。人間のそれは命をはぐくむためにあるが、妖女のそれは命を奪うためにあった。激烈な快楽と引き替えに、生を引きずり出し、根こそぎ搾り取るために。そこへ、熱く、キツく、甘く、休むことなく呑み込まれてゆく。ペニスも、精液も、意識も、生命も。

 ――ぢゅぶっ、ぐぢゅっ、ぬちゅっ。
 蜘蛛の脚が男の腰を抱え込むたびに淫猥な音が響き、そのたびに悲鳴と嬌声が上がる。吸い尽くせなかった白濁液はそれぞれの身体をつたい、コンクリートの床に水たまりを作ってゆく。

「あ、あ、うあ‥‥!」
 どくっ、どくっ‥‥。
「んうっ! はぁ、はぁ‥‥。あ‥‥ん、さすがに苦しい?」
 何度目かの律動の後、搾り取る力を緩めて優しげな声で問いかけるが、青年はぜいぜいと荒い息をするばかり。射精の量も少なくなり、その見事と言いうる剛直もやや疲れ始めているようだ。
「‥‥やっぱり人間は人間、か。しかたないわ、少し力を貸してあげる。そのかわり‥‥ふふふふ‥‥楽しませてよ。あなたの力の限界で、狂おしく悶えながら私を楽しませて‥‥!」
 耳に舌を差し込みながらそう言うと、やおら唇を首筋にあてがい――その鋭い牙を深々と突き立てた。
「ぎゃあっ! あ、あ、あ、ぐあああぁッ!!!」
 苦悶の絶叫。目を血走らせ、青筋を立て、ガクガクと震えながら。だがそのけたたましい悲鳴には頓着せず、蜘蛛女は首筋にかみついたまま動かない。そのうちに痙攣も弱くなり、悲鳴は小さくなり、ついには止まる。同時に牙も引き抜かれた。傷口から赤黒い血と透明の液がとろりと流れ出る。
「あ、あ、‥‥」
「どう? 気分は。私の毒はすぐに効いてくるわ‥‥そうすれば私ともっとたくさん楽しめる。快感は倍増するし、持久力もちゃんと付く。そう、突いて突いて突きまくって、私を悶えさせることもできる。かわりに、あなたはあなたじゃ無くなってしまうかも知れないけど、ね。ま、死ぬよりいいでしょ? ‥‥んふふ‥‥」
 ――ドクン。
「!?」
 突如、秋人は自分の鼓動をはっきりと聞いた。

 ――ドクン。
「うっ‥‥く‥‥ああ、っぐぅああっ!?」
「――っ! あ、あ、効いてきたの‥‥ねぇ‥‥んくっ! い、いいわ、さっきとは比べものにならない‥‥!」
 秋人が叫び声を上げると同時に、妖女はその腕を強く絡ませた。鋭く冷たかった瞳は熱く潤み、その身体が小刻みに震える。
 ――じゅぶぅっ。
 青年を抱える脚がその腰を押しつける。途端に上がる二つの悲鳴。
「ぐがあぁぁっ!!!」
「んあああっ!!」
 だが、一方は限界を超えた快楽による苦悶の咆哮、もう一方は快楽に酔いしれる甘美な悲鳴だ。
「いいわ、ステキ‥‥っ! ああ、もうたまらない! あなた、が、自分でっ‥‥動い‥‥てよぉ‥‥っ!!」
 言葉を詰まらせながらそう言うと、彼女は秋人の腕と脚を戒めていた糸を鋭い爪先で解き放った。
「うあ、ああっ!!」
 バランスを崩しそうになった秋人は女の身体を抱きしめた。香しい髪が汗でまとわりつく見事な乳房を胸板で押しつぶし、人間のものと変わらない上体を抱擁した。もはや恐怖はなかった。嫌悪もなかった。あるのは快楽だけ。妖しく美しい蜘蛛の怪物を抱きしめ、貫き、共に咆哮した。

 じゅぶっ、ずぷっ、ぐじゅっ。
 粘液の音はさらに大きくなり、二人の足下の水たまりは見る間に広がってゆく。もはや蜘蛛の脚は男の身体を支えることも難しくなり、その先までもぴくぴくと震えていた。
「くはっ! ああっ、いい、すごい‥‥っ!! 突いてぇ、も、もっとぉっ!! んぐっう、くあ‥‥ぅ、ああああっ!!!」
「ぐあっ、あ、あぁっ、くはっ、うああっ!!」
 当初の挑発的な責めとはまるで違う、快楽に溺れる妖女の求めに応じて秋人はがむしゃらに腰を動かす。全身を走り抜ける快感の奔流は普段の絶頂感など比ぶべくもないほどだ。しかし刺激に脳髄が痺れながらも、達する気配はまだ遠い。いよいよ強く蜘蛛女を抱きしめ、全力で腰を叩きつける。その動きはもはや人間のものなどではなかった。

「ああああああああっっ!! だめ、もうだめっ!! イく、わた‥‥し、もうっ――あ、あ、‥‥あああ――――ッ!!!!!」
「グガアァァァアアアッ!!!!!」
 狂おしい絶叫、野獣のような咆哮。次の瞬間に大量の白い粘液が、怪物の秘裂からゴボッ、と吹き出すようにあふれ出た。
「――かはっ‥‥あ、あ、あふぅ‥‥っ。ち、力を貸してあげたとは言っても‥‥ああぅ‥‥ここまで‥‥とは‥‥ね‥‥。燃えたわ‥‥」
 快楽に耐えきれず意識を失い、ぐったりと体重を預けてくる男を軽く抱きながら、蜘蛛女は甘く囁いた。
「吸い尽くして終わり、って思っていたけれど‥‥思わぬ拾いものだわぁ、これは」
 そう言ってくすくすと笑う。それは淫靡で、妖艶で――だが、不思議なまでに無邪気な笑みだった。

* * * * * *

「ん‥‥ああ‥‥朝か‥‥」
 大森秋人はいつもの部屋で目を覚ました。昨日はろくでもない一日だったが、それを引きずっていては仕事にならない。昨日のことは昨日のこと。
「‥‥どうやって帰ったんだっけ‥‥まぁいいか」
 どういうわけか帰り道の記憶がない。仕事の後、デートに行って、振られて、‥‥それから後が分からない。分からないと言うことは、たぶん痛飲したのだろう。そのわりに二日酔いの気配もないのが、不思議といえば不思議だ。
「おっと、ぼやぼやしてるとまた遅刻だ」
 ごく軽い朝食を取り、髭を剃り――鏡を見て、違和感に気付いた。
「あれ? なんだこれ」
 首筋に二つの腫れがある。虫にでも刺されたのだろうか。
「まるで吸血鬼にでもやられたみたいだな。ま、痒くもないからイイか」

* * * * * *

 一ヶ月後。白糸産業、営業二課。
「おい君、大森君は最近どうしたんだ? 以前とずいぶん様子が変わったようだが」
 管理職であろうか、白髪交じりの男性が若い社員に問いかけた。
「そうなんですよ。なんでも『彼女に振られた』とか言ってた日くらいから、だんだん‥‥。付き合いは悪くなったし、なんか取っつきにくくなった、っていうか――。それに、会社帰りは変に元気なんですよ。まるで恋人に会いに行くような足取りで‥‥」

 そう、夜ともなれば彼は恋人の元へ急ぐ。今宵もささがにの糸にひかれて。

(終)

蜘蛛シリーズ1作目。同時期に他の書き手さんのSSに蜘蛛さんが出てきて,それがやたら私好みだったので触発されて一気に書いてしまいました。「女郎蜘蛛」的な女妖怪はやっぱりクドいぐらいにエロ女じゃないと,という信念に基づいてます。

小説のページに戻る