第四話 奪回

「ん‥‥。んぅ‥‥」
 ちゅうっ、という音を最後に、ようやく二人は唇を離した。いったい何分間口づけをしていたのだろう。このままベッドに押し倒したいという衝動を抑え込み、龍牙は女を引き離した。名残惜しそうに一筋の唾液がこぼれる。
「お別れね、龍牙‥‥」
「ああ」
 努めてぶっきらぼうな口調。
「お前の顔を見なくて済むんだ、せいせいする」
「ふふ、まだそう言うことを言うのね‥‥。こんな体の美女なんて、もう二度と――会えないかもしれないのに」
 女は気だるげな、だが少し寂しげな微笑を浮かべる。
『――黒瀬隊員、輸送車が到着しました。急いでください』
 捕虜の部屋の外から、まだ若い声が聞こえた。
「わかった、すぐ行く。――ザーラ、行くぞ」
「ええ。最後のエスコート、よろしくね」
「――ふん」
 ドアを開ける前にもう一度キスをして、そしてようやく部屋を後にした。この女を護送するのもこれが最後か‥‥そんなことを思いながら。

 物々しい装甲輸送車にザーラの後ろ姿を見送る。全く同じ型の数台の車両が、全く同じ編成の護衛を伴い、同時に別々の進路に発進した。

* * * * *

「龍牙君、彼女を――ザーラ殿を移送することになった」
 司令は唐突にそう言った。
「それは、いったい――。確かこの本部に身柄を留めるということで決着したのでは?」
 龍牙は思わず、一瞬言葉を詰まらせた。彼は《ヴァンガード》特殊戦闘部の遊撃隊員として勇名をはせているが、このところは《シュヴァルツ・バタリオン》の元情報統括・ザーラの尋問官を兼ねている。だが尋問に限らず、彼女に関わる諸事を預かっていると言っても良い。あまりにも唐突な、明らかに予定外の発言に驚かずにはいられなかった。
「‥‥。上層部からの圧力が予想以上に強くなってきた。私も抵抗したのだが、力及ばず、だ」
 うつむき加減に声を落とす。
 司令を始め、《ヴァンガード》は上層部を信用していない。《ヴァンガード》自体の結束は堅く、実直・清廉な人柄で知られる司令以下、正義感の強い職員・隊員が日夜奮闘している。が、上層部――すなわち官僚や政治家といった連中の中には敵と内通している者さえいる‥‥少なくとも、多くの隊員はそう感じている。だからザーラを捕らえたという情報も、本来なら上層部へ上げたくはなかった。「敵の情報を知っている」ということ自体がきわめて重要な機密だからだ。しかしその情報はどこからか漏れ、そして彼女の身柄移送を様々な案件と秤にかけられ‥‥司令はやむなく屈したのだった。
 ――去りゆく装甲車を振り返ると、そのことが龍牙の胸に去来した。

* * * * *

 防弾ガラスの小窓から、ザーラは外を眺めていた。灰色の空に灰色のビル街。くだらない、つまらない世界だ。だが、これから連れて行かれる場所はおそらくもっとくだらなく、つまらない所に違いない。悪くすれば処刑、良くても前と大差ないか、それより劣る扱いだろう。
 ――龍牙のいない捕虜生活なんて。
 あの男との燃えるようなひととき――それが味わえないなら、捕虜生活もひどくつらいものになりそうだ。
 高架を降り、ビル街の谷間を抜けてゆく。両側に立ち並ぶ建物が視界を遮り――ふと、窓の外に見慣れないものが――いや、かつてよく知っていたものが目に入った。
「あれは――!?」

* * * * *

「どうした龍牙、彼女と別れて寂しいか?」
 自販機で買ったコーヒーを飲み干し、一息つく。と、後ろから同僚の声が飛んできた。
「何を言ってるんだ‥‥ったく」
「ま、気を落とすなっ――?」
『緊急事態発生 緊急事態発生 戦闘部および特殊戦闘部は直ちに作戦室へ集合せよ 繰り返す――』
 軽口の途中にけたたましいサイレンとアナウンスが流れた。二人は一瞬顔を見合わせると、作戦室へと急ぐ。何か嫌な予感が胸をかすめ――そしてそれは現実のものになった。

「皆、集合したようだな。――今から四分前、ザーラを乗せた装甲輸送車が襲撃された。確かに彼女は敵の最高幹部だ。しかしこれまでに彼女がもたらした情報は我々にとって極めて重要であり、今後も重要であり得る。それぞれ思うところはあるだろうが、なんとしてもザーラを奪回せねばならない」
司令は緊張感のある、しかし落ち着いた声でまずそう語った。隊員も心の底はともかく、静かに頷く。司令は面々をざっと見渡すと、手元のパネルを的確に操作しつつきびきびとした口調で指示に移る。
「襲撃者の詳細は不明だが、敵の今までのやり口から想像するに、複数の車両で挟撃し、停車したところを戦闘員が襲ったと思われる。襲撃位置および監視カメラ等が捉えた敵の位置は――」
 スクリーンに市街図が映し出され、そこに赤い点が点滅している。
「予想される進路は――」
 司令はあくまでも冷静さを失わず、淡々と的確に分析し、指示を出す。しかし龍牙はただ一言だけを今か今かと待ち受けていた。
「――以上。諸君らの健闘を期待する。総員出撃!」

* * * * *

「くっ‥‥ごほっ、ごほっ‥‥」
もうもうと立ちこめる煙。急停車に続く被弾の衝撃で、ザーラは座席から投げ出された。強化人間用の拘束具が手首を戒めているため、起き上がることもままならない。その目の前に、どさりと死体が転がった。
先ほどまで彼女の隣にいた兵士だ。
「っ!」
「ザーラ様ともあろうお方がずいぶん無様な姿になられたものですね。――お迎えに参りました。申し開きは首領と一緒に、裁判でお聞きします。さあ、こちらへ」
 慇懃無礼な口調がそう言ったかと思うと、男の手が頭をつかみ、彼女を荒々しく立ち上がらせた。
「ボリス‥‥お前か」
「ふふん。いいざまだな、淫乱女」
 二十代後半ぐらいだろうか。比較的整った顔だが、下品そのものの嘲笑。
「‥‥口の利き方に気をつけなさい、粗チン野郎」
「――ンだと、てめぇ!!」
 バキッ!
 拳がザーラの頬を打ち、彼女の身体を車両の内壁に叩きつけた。装甲車自体ががくんと揺れる。
「‥‥立場の違いってものが分かってねぇみたいだな‥‥。何もかも逆転してんだよ、ザーラ“様”。てめえが情報を垂れ流してくれたおかげでこっちは大損害だ――何がどうあろうとてめえは死刑だ。輪姦されながら生きたまま八つ裂きにされるんだよ。良かったな、何より好きなチンポを何本も突っ込まれて、汁まみれで死ねるんだからよ!」
 痛みに顔をゆがめるザーラを乱暴に引きずり上げ、怒鳴る。
 彼は情報部門内の戦闘部に属していた下級幹部だ。性的にはともかく組織幹部としては冷静なザーラとはそりが合わず、処分されかけたこともある。立場の逆転が嬉しくてたまらないのだろう、サディスティックな笑みが満面に浮かんでいる。
 彼は破壊された装甲車から彼女を引きずり出すと、後方にある《シュヴァルツ・バタリオン》の装甲トラックに彼女を押し込み、自らもその兵員室に乗り込んだ。狭いコンテナ状の室内に二人を乗せ、車両は動き始める。その振動を感じながら、ボリスはザーラを床に押しつけ、その体にまたがった。
「あいかわらず馬鹿でかい乳だな‥‥いつもいつも見せつけやがって‥‥!」
「っ‥‥!」
 男の指が荒々しく胸に食い込む。気に入った相手となら思わず甘い声を上げただろうが、あいにくボリスは彼女の趣味ではなかった。顔は悪くなくとも、その下品で野卑な物腰は好きになれなかったし、ましてやこの状況だ。
「すげえ揉みごこちだ‥‥。もう我慢できねえよ」
 男は荒々しく女の服を脱がせる。ボタンがはじけ飛び、見事な乳房が露出する。その胸にむしゃぶりついたかと思うと、彼はつなぎのボディースーツを半ば脱ぎ、勃起した男根をザーラに突きつけた。
「しゃぶれよ、ザーラ“様”。しゃぶるの好きだろ? ほら、さっさと咥えろ。――そうだ、噛むなよ‥‥」
 一瞬ためらったが、彼女は観念してそのペニスに舌を這わせた。亀頭の周りを舌で一周させ、唇の中に飲み込む。
 くちゅっ、ちゅぶっ‥‥ぶちゅっ。
 頭を軽く前後させ、しゃぶる。
 ――貧相なモノね。
 一見嬉しそう‥‥とまでは言えなくとも、まんざらでもなさそうな表情を作りつつ、彼女は内心で嘲笑した。情報統括だったときの側近たちや事務の少年たちと比べても決して大きいとは言えないし、ましてや捕虜生活を楽しませてくれた尋問官とは比較することさえ哀れだ。それでも本人はそれなりの大きさだと思っているあたりが笑わせてくれる。
「くっ‥‥さすがだな、ザーラ‥‥」
 ――ふふふ、たったこの程度で?
 思わず漏れた声を心の内で嗤う――同時に、いよいよ我慢できなくなったのか、ボリスは男根を彼女の口から引き抜いた。そして女の下着も引きずり下ろすと、濃くはない茂みが露わになった。ザーラの唾液でぬれた陰茎に念のため自分の唾液も塗り、そして秘部にそれをあてがい――。

* * * * *

 大型バイクが猛スピードで突っ走る。猛烈な排気音を響かせ、民間車両の間を信じがたいハンドルさばきで抜けてゆく。恐れをなして脇へ退避する車が相次ぎ、車線はかなり通りやすくなったが、しかしバイクの乗り手はいらつきを押さえられなかった。
 ――速く、もっと速く。
 これほど急いだことが、果たして今まであっただろうか。外国首脳襲撃計画を阻止したときも、バスジャックから乗客を解放したときも、これほど焦っただろうか。重要人物や罪のない市民を救うときよりも、重罪人であり許してはならない「敵」を奪還する今の方が焦り、怒る――「正義の味方」としてはあってはならないことかもしれない。だが、一人の男として、龍牙は自分を押さえることができなかった。
 司令の想定したルートが誤っていなければ、あと数十秒もしないうちに追いつけるはず。だが、もしそれが間違っていたら。怒りと焦り、苛つきがそんな考えさえ浮かばせる。
 しかしその一瞬の不安も、どうやら杞憂に終わりそうだ。――前方に車列。もう見慣れた、黒一色の装甲車だ。

* * *

『警報! 後方からバイクが一台、高速で追跡してきます!』
「何!? さっさと始末しろ!!」
 ボリスは挿入直前に邪魔が入り、通信機に向かって怒りもあらわに怒鳴りつけた。行き場を失ったエネルギーを保ったままの男根をやむなく収め、ボディスーツを着直しながら大声で指示を続ける。
「三号車・四号車、車線を封鎖・足止めしろ! 一号車と二号車は本車を護衛、このまま全速で突っ走れ!! ‥‥くそっ、いいところで‥‥」
 怒鳴るボリスに、思わずザーラは薄笑いを浮かべる。
「ちっ。安心しろ。あんたみたいな悪党の淫乱女に白馬の王子様なんて来ねえよ」

* * *

 前方の小型装甲車が二台、急減速して車体側面をこちらに向け――
「させるか!!」
 二台の護衛車が向きを変えて車線を封鎖する直前にさらに加速し、その間を間一髪で突破。反射的にハンドルを切ってしまった二台はその場で衝突・停止した。
 無理な加速でエンジンも限界だが、そんなことはどうでもいい。前方の車列との距離が急速に縮まってゆく。護衛車両が闇雲に機銃を撃つが、簡単に当たりはしない。当たったところでこの強化スーツには豆鉄砲に過ぎない。――目当てはあくまでも輸送車。後方の護衛を追い越し、走行中の装甲トラックに左から横付けして、並走したまま操縦席のガラスをたたき割る。防弾ガラスなのだろうが、
最高レベルの強化人間である龍牙には薄板同然だ。
 ――ガァン!!
 混乱した副操縦手が拳銃を放つ。しかしその弾丸はヘルメットにかすり傷を付けただけだった。龍牙は窓から右手を突っ込むと操縦手の首を手刀で叩き斬り、そして窓枠を掴んでドアごとねじ切った。そしてそこから車内へ入り込む。副操縦手の頭をつかんで車外へ投げ捨てる――乗り手を失ったバイクが倒れ、地面に落ちたその男を轢きつぶした。
 龍牙はハンドルを握り輸送車を止めるべくブレーキを踏んだが、しかし多少思案した。どうもこの車両は、車内からは後部の兵員室には行けないらしい。その時だ。
『おい、どうなってる!! 返事をしろ!!』
 明らかにあわてた声が、操縦席に響いた。見ると通信機が唸っている。
「貴様が指揮官か? 悪いがザーラを返してもらう」
『だっ、誰だ貴様!?』
 この期に及んで「誰だ」とは、くだらないにもほどがある――思わず龍牙は失笑した。
 指揮車両を奪われ護衛の二両も浮き足立っているようだ。しかし上官と捕虜を奪還すべく向かってくるのは時間の問題だろう。龍牙は急ぎ車両をバックさせ、手近なビルに後部ドアを密着させた。これで中から逃げることはできまい。
「そこで待っていろ、今から外の連中を片付けてくる。――女に傷を付けるな。もしものことがあれば‥‥この世の地獄を見せてやる」
 運転装置を破壊しおもむろに車外へ降り立つと、龍牙は向かってくる護衛車両に襲いかかった。

* * *

 ボリスは焦っていた。いや、恐慌状態だった。
 車外の激しい銃撃音や金属音、爆発音‥‥それらは徐々に小さくなり、戦闘が早くも収束に向かっていることを示していた。
 ――もしかしたら、部下たちがあの敵を倒しているかもしれない。
 浅はかな彼は、そう思いたがった。自分が直面している脅威が、いったい何者なのか――もう少し彼に想像力があれば、そんなかすかな希望を思い浮かべることもなかっただろう。それに、こうして位置が知られ移動力も奪われてしまった今、あの敵を倒せようが倒せまいが、増援に取り囲まれてしまうことは想像が付きそうなものだ。しかし彼はそんなことさえ思いつかなかった。
「くっく‥‥ふふふ‥‥」
 含み笑いが響いた。半裸のまま床に転がされて、女が笑っていた。
「くそ‥‥誰だ、誰なんだあいつは!」
「ふふふ、気づかなかったの? たった一人で車列を壊滅させる男なんて、そうそういないわ。――あの声、黒瀬龍牙よ。ふふふ、お前はもうお終いよ」
「な‥‥に‥‥!?」
 半ば以上絶望に染まった声が漏れた瞬間、車両が揺れる。そしてメキメキと金属がきしんだかと思うと、後部扉が無理矢理に開放された。
 逆光に、シルエットが見えた。それは頭の先から足の先まで黒ずくめの、まごうことなき悪鬼の影だった。

*

 龍牙が後部扉を力ずくで開くと、中からあわてたような物音が聞こえると同時に、
「く、来るな!! こ、この、この女がどうなってもいいのか!?」
 小悪党、というよりほかないセリフがコンテナの中から飛んできた。見ると奥に、女の首を羽交い締めにした男がへばりついている。
「――ザーラ、無事か?」
「‥‥なんとかね」
 龍牙が静かな口調で問うと、中から女の落ち着いた声が返ってきた。
「‥‥危害を加えていないだろうな」
「あ、ああ!」
 怒りのこもった声に、情けない声が返答する。
「なら降伏しろ。抵抗しないなら命は助けてやる。彼女と一緒にこっちへ来い。――武器は捨てろ。もう味方は全滅した。貴様に勝ち目はない――早くしろ」
「わ、わかった‥‥」
 女の身体を抱え、よたよたと出入り口まで近づいてくる。
「そこにザーラを降ろせ」
 あごで示すと、ボリスは彼女を出入り口脇に降ろし、そして這々の体で車外へ現れ――
 ドガッ!!
「ぐあっ!?」
 首が見えた瞬間、その体は宙を舞い、道路にうつぶせに叩きつけられた。
「ぐぉ‥‥な、何を‥‥ひぎっ!!」
 龍牙がボリスの右手首を思いきり踏みつける。ゴキブリのように無様にもがく男を足で押さえたまま、龍牙はザーラを抱き起こした。そしてその手首の戒めを、女の手を傷つけないように注意しながら解き放つ。
「大丈夫か? ――その服‥‥!」
 服が破られ胸が露わになっているのを見て、龍牙は瞬時に顔を曇らせた。ヘルメット越しではそれも分からなかっただろうが、しかしその感情の変化は声に現れていた。
「‥‥ええ、ありがとう。大丈夫よ、挿入はされてないから」
 同じ目に遭えば、ほとんどの女性は泣くか、少なくとも取り乱すだろう。しかし彼女は気丈に応えた。だがそれで龍牙が安心するはずはない。急速に心が煮えたぎり、どす黒い怒りがぐつぐつと湧き上がり――ボリスを踏みつけた脚に思わず力が入る。悲鳴が起きたが、彼には聞こえなかった。
「‥‥それより少し頬が痛いわ」
 見ると、腫れてはいないが、美しい横顔にかすかなアザがあった。それを知った瞬間、龍牙の心の何かがはぜた。男を踏みつける力が一気に強くなり、幹部として改造を受けているはずの骨がみしみしと音を立てる。
「ぎゃあっ!! やめ、やめろ!! こ、降伏するって言っただろ!!」
「‥‥ザーラに危害を与えなければ許す、と言ったはずだ」
 静かな、だが猛り狂う怒りの炎をまとった言葉。
「そ、それはお前に会う前に――」
「同じだ」
「ぐぎゃあぁっ!! な、なんでだ、そいつだって俺と同罪、いや、もっと――うぎぃいい!!」
 右手首を完全に踏みつぶし、今度は左手首に重心が移る。情けなくも悲痛な声を上げるかつての部下を、ザーラは氷のような目で見つめていた。
「‥‥確かにそうかもしれないな。だが‥‥こいつは俺の女だ」
「ぐぎ、ひぎいっ!!」
「俺の女を殴り、辱めた‥‥貴様は――何があろうと許さん」
「ひっ――」
 ボリスが最後に見たのは龍牙の足だった。次の瞬間にはその頭がちぎれ飛び、壁に叩きつけられ粉々に飛び散る。血を吹き出しながら、首のない骸がびくびくと震え、そして動かなくなった。
 それを見届け、ようやく彼はヘルメットを脱いだ。
「遅くなった‥‥すまない。もっと早く来るべきだったのに――いや、移送そのものに抵抗すべきだったのか‥‥」
「気にしないで。でも‥‥ふふ‥‥俺の女、なんて‥‥」
 妖艶に、だが嬉しそうに笑う。
「ああ。お前は俺の女だ。誰にも渡しはしない。ザーラ、好きだ――お前のすべてが。体に溺れているだけだと、色香に迷っているだけだと思おうとしていた。お前を憎もうとしていた。だが、もう無理だ。好きだ。愛してる。ザーラ‥‥」
 無惨な死体の前で、龍牙は女を抱きしめ、愛を打ち明けた。女はそれを受け入れ、甘い、濃厚なキスを。後続の隊員たちが駆けつけたときも、二人はキスを続けていた。正義であろうがなかろうが、もうどうでもよかった。堕落といわれようと、偽善といわれようと、龍牙は二度とこの女を手放すことはできそうになかった。

* * * * *

 半年後。

 物々しい武装をこれ見よがしに手にした戦闘員達を、たった一人の男が正面から蹴散らす。敵も元は一般市民だった者が大半なのだが、拉致されたあげく粗雑な脳外科手術を受け「生きた戦闘人形」と化してしまっている。その彼らを屠る‥‥そこに一抹の痛みを感じるのも確かだが、しかしそれが彼らにとっての「救い」だと、龍牙は考えることにしている。現場指揮官である上級戦闘員は自発的な敵組織員ゆえ、一切の容赦は不要だが。
 まさに死屍累々、といった風景のなかを、静かに、かつ迅速に行動する。敵の増援が来る前にすべてを終わらせなければ――この研究施設を完全に破壊しなければならない。

 ――ゴシュッ!
 無言で襲いかかってきた戦闘員の胴を、一撃の手刀でぐしゃりとへし折る。無駄な抵抗を淡々と排除しながら、そしてついに施設最深部へと到達した。巨大な培養槽が何基も建ち並び、ごぼごぼと音を立てるその溶液中には、人とも獣ともつかない奇怪な姿が一体ずつ浮かんでいる。――製薬会社を装う、“怪人”研究所。《シュヴァルツ・バタリオン》の最低最悪な施設の一つが、龍牙の目の前にあった。
 しかしそこには、研究員を含め、一人の姿も見えない。
「くそっ‥‥はずれか」
 彼の目的はこの研究所そのものではなかった。正確に言えば、研究所も目標の一つだが、それよりも重要な目標があった。すなわち、この研究を行っている総責任者である。大きく二つの施設からなっているこの研究所、龍牙はこちらの大型施設にその人物がいると踏んで潜入したのだが、どうも彼のパートナーが潜入した小型施設が「あたり」だったようだ。彼は忌々しげに舌打ちをしたが、しかし何もしないという手もない。小型かつ高性能な爆弾を仕掛けると、相棒の向かった施設へと風のように走った。

* * *

 無惨な死体の海に、二つの人影があった。三十代半ばとおぼしき男と、ぴったりとしたボディスーツで体を覆った長身の女。
「ま、待て、待ってくれ! 元同僚のよしみだ、い、命だけは‥‥!」
「くっくっ‥‥そうね、捕虜にするのも悪くないかもしれない。だけどあなたは、私が情けをかけなければならないような仲じゃなかったわ」
 壁を背にへたり込み、無様に命乞いをする男。これが曲がりなりにも自分と同じ「最高幹部」に連なっていた男だとは。命乞いにしてももう少し毅然とした態度がとれないものだろうか‥‥その醜態に女は軽蔑の笑いを隠せなかった。
「‥‥それにね。いくら立場が変わったとはいえ、この私に戦闘員を差し向け、この美貌と体に傷を付けようとした報い‥‥味わわせてあげようと思うのよ」
 酷薄な微笑を浮かべ、ブーツをカツ、カツと響かせてじりじりと近づく。
「くそ‥‥っ、くそっ! 首領の愛人風情が!! 戦死したのかと思ったら敵に鞍替えか、どうせ股を開いて取り入ったんだろう。恥を知れ、この売女!!」
 絶望的な状況に陥っていることを知り、男は雑言を吐き散らす。だが、それも長続きはしなかった。
「醜いわ‥‥最期ぐらいもう少し堂々とできない? ‥‥それにね、一つだけ訂正しておくわ」
 ドガッ!!
「ぐぉっ! ‥‥――ひぐっ!!」
 蹴り飛ばされ、床にはいつくばる。その膝の裏をブーツが踏み、じりじりと圧力を加えてゆく。男の額に脂汗が浮かび、必死にこらえる苦悶の声が漏れる。
「――股を開いて取り入ったんじゃないの。私が溺れてしまったのよ‥‥黒瀬龍牙――あなたも知っているでしょう? 彼に、ね‥‥。首領でも部下でも他の幹部でも満足できなかった私が、骨の髄から狂える相手‥‥だから裏切ったのよ。――ふふ、さあ、おしゃべりは終わり。私を傷つけようとした罪、私をののしった罪‥‥たっぷり後悔なさい」
 ――ボギャッ。
 言葉が終わったとたん、男の膝を踏み砕く。その音と絶叫を合図に、凄まじい処刑、いや、虐殺が始まった。
 多くの市民を拉致し、洗脳し、あるいは改造して生体兵器に仕立て上げる――その一連の非道を指揮していた男だ。屠殺される家畜のような悲鳴を上げ、脂汗を流し、必死の嘆願すら悲鳴にかき消えてしまう――当然の報いだろう。いや、これでさえ生ぬるいかもしれない。
 だが、この有様を放置することは‥‥彼には――龍牙にはできなかった。
「やめろ!」
 駆け寄り、そう呼びかける。だが悲鳴にかき消され、その言葉は届かない。
「やめろ! もういい、もう十分だ!!」
 女の肩をつかみ、制止する――だが、女はその瞬間にも男の腕をねじ切った。凄まじい悲鳴と血しぶき。
「あは‥‥ぁん。‥‥龍牙‥‥来たの?」
 振り向いたその目――それを見た瞬間、龍牙はぞくりと電撃を感じた。深く淀んだ目。どろりとした粘りを思わせる、血の沼のような残虐な瞳。‥‥そうだ。これこそがこの女の瞳だったのだ。
「よせ、もう――!」
 またしても男を苦しめようとする女を制止しようとし――彼は無理に女の顔を振り向かせ、そして一気に唇を奪った。
「んうっ‥‥!?」
 驚いて目を見開いたが、しかしすぐにその瞳はとろけ、彼女は男に身をゆだねた。肉感的な身体を龍牙に絡みつかせ、血に濡れた手を背中に回し、舌を絡ませてその口づけに応える。
「あ‥‥ん‥‥。龍牙‥‥」
「落ち着いたか‥‥?」
 唇を離され名残惜しげな女に、多少不安そうに彼は尋ねる。だが熱いキスに惚けてしまった彼女には今ひとつ意味が通じないようだ。
「ぐ‥‥あ‥‥」
 妙な沈黙を、苦悶の声が破った。ぼろぼろになった男が、動かぬ手足を必死にふるわせてかすかに動いている。女の足元でもがくその男に、龍牙は視線を向けた。
「‥‥お前が苦しめてきた人間の苦痛、少しは分かったか? だが‥‥少し甘いが、もう終わらせてやる」

* * *

 郊外にあった施設が爆発し、夜空に煙と炎を噴き上げる。それをバックミラーで確認すると、龍牙は助手席を横目で見た。
「なあ、玲」
 だが、呼ばれた当人は窓に映り込んだ自分を見ながら、髪の手入れに余念がないようだ。
「玲!」
「‥‥あ、ああ、私のことか‥‥。悪いわね、まだ慣れなくて」
 そう、「玲」というのは彼女に最近与えられた名前だ。
《ヴァンガード》特殊戦闘部員として、今までとは全く新しい人間に――己が欲望ではなく、正義のために戦う人間になって欲しい‥‥司令がそう考えて新しい名前を与えたのだ。その思いが功を奏しているかどうか、それは全く別の問題だが。
「でも二人きりの時ぐらい、以前みたいに呼んで‥‥そう言ってるじゃない」
「‥‥そうだな。ザーラ、お前があいつに言ってたことだが‥‥」
「何よ、そんなところから見てたの?」
「ああ、まあな。‥‥お前は俺に‥‥その、なんだ、惚れてるから味方になったんだよな‥‥。じゃあ、もしまた敵にお前を夢中にさせるような奴がいたら‥‥俺たちを裏切る‥‥のか?」
 前を見て運転しながら、だがちらちらと女を見ながら、龍牙は言いにくそうに口を開く。
「‥‥ぷっ」
 女は世にも楽しげに吹き出した。とてもではないが、我を忘れて敵をなぶり殺しにしようとした女だとは思えない――龍牙はそう思ったが、「笑われた」という点はいささか不快だ。確かに無粋な問いだと自覚はしているが。
「‥‥そうね、そんな男がいれば――あり得るわね」
「‥‥」
「ふふ、ふふふ‥‥だけどそんな相手はこの世にいるわけない‥‥あなた以上に私を夢中にさせる男なんて、絶対にね‥‥」
「‥‥」
 いずれの答えにも龍牙は沈黙していた。‥‥黙るしかないではないか。

 気がつけばもう街中に入りつつある。車の少ない交差点へさしかかろうとすると、しかし残念ながら赤信号になってしまった。――信号に気を取られていた龍牙は完全に油断していた。
「な、なん――んぅぅっ!? ぷはっ、お、おいっ――!!」
「‥‥んふ‥‥んんっ‥‥」
 勝手にサイドブレーキを引き、ザーラは龍牙に襲いかかった。深紅の唇が重ねられ、熱い舌が唇と歯列をこじ開け、舌に絡みつく。ハンドルを持つ手を取って胸元へ導き、自分は運転席にむりやり移動し龍牙をシートに押しつける。
「よ、よせザーラ‥‥っ!」
「いやよ、どうせ外からは見えないわ‥‥。龍牙‥‥愛してる‥‥」
 信号は青に変わり、後ろでクラクションが鳴っている。だが二人の揺れる車が動き出したのは、はるかに後のことだった。

(終)

第四話。二人の物語としてはここで一応完結です。従って、後の話はすべて外伝または番外編となります。ちなみに悪女が正義側に寝返ることを専門用語で「善堕ち」と言ったり言わなかったりします。‥‥要するにザーラが善堕ちしてしまったので悪女物としては完結せざるを得なかったわけです。

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