神官長の誘惑

 商都ビルサ、中央広場――市庁舎や裁判所がそびえる、まさに中心部。円形に作られた広場のちょうど中心には、びっしりと文字の彫り込まれた大きな石碑がある。ビルサ建国碑。オアシス集落にすぎなかったビルサが、多種族の共存共栄を掲げる都市国家として成立した、その経緯と理想、そして法――「ビルサに集う諸種族の合意に基づく憲章」――を刻んだ石碑である。周辺には露天商が所狭しと並び、物売りの声が喧しい。
 大口の商人達がひっきりなしに出入りする貴金属市場、宝石市場もこの中心部に面している。東西、南北を行き交う人、荷物、金。ぎらつく太陽も舞い散る砂塵も何のその、彼らは利益のために走り回る。そのことに種族の差はない。
 大陸中の富が集まり、行き交うビルサ――その力を視覚的に見せつけてくれるのは、この中央広場や壮麗な市庁舎もさることながら、それより少し北の地区だろう。有力者達の邸宅が華やかさを競う地区である。壁一面に格子模様が目立つのは、来年には任期満了を迎える現市長ヘスモク邸。タイルで幾何学模様が描かれているのは評議会議長ロクナフス邸。大きな噴水が門の奥に見えるのは司法長官ルカナン邸。いずれも名だたる政治家であり、同時に豪商である。ヘスモク氏は貴金属商、ロクナフス氏は銀行家、ルカナン氏は石材商だ。
 そのような邸宅街の一角に、ひときわ華やかな屋敷がある。淡いバラ色の大理石の列柱と、同じく大理石の壁。その表面には緩やかな曲線で植物の紋様が浮き彫りにされ、その合間合間には様々な種族の男女が愛を語らう様が、艶やかに、しかしあくまでも上品に添えられている。次期市長との呼び声高い、アルヴァス氏の屋敷だ。

 ――その屋敷の、応接室の一つ。そこは昼間だというのに薄暗い。しかし決して不快な暗さではない。かすかにたゆたう香の煙と相まって、心地よさを感じさせる薄暗さ。その薄暗さに調和した、壁や天井の装飾、絵画、彫像。どれも気品に溢れた優美な品だ。
 そして豪奢なソファには、男が一人で腰掛けていた。シェダ南方諸国に見られるゆったりした白色の礼服。浅黒い肌に精悍な顔立ち、体格。いちおう堂々としてはいるのだが、少なからぬ緊張も見て取れる。それもそのはず、彼のような立場では、本来このような所を一人で訪れることはまずないのだ。まして主と面会など、せいぜいがお偉方のお付きとして、といったところだ。緊張が相当強いのか、ベルトから下げられた護符を頻りに触っている。
 その緊張と居心地の悪さがいよいよ高まってきたところで、重々しい音とともに扉が開いた。侍女の澄んだ声が響く。
「フィルミア様のおなりです」

 男はソファから立ち上がりかけ、そのまま息を呑んだ。
(‥‥こ‥‥これはまた‥‥)
 現れたのはもちろん、屋敷の主――女主人。彼女が室内に一歩踏み込んだ瞬間、薄暗い室内に光が差し込んだかに思われた。それほどの存在感を放ちながら、女主人は優雅な、そして威厳に満ちた歩みを運ぶ。緩く波打つ金髪からは均整の取れた角が伸びる。くっきりとした二重のまぶた、艶やかな目元には濃密な色香が宿り、鼻は誇り高さを象徴するかのよう。形良く膨らんだ唇は、華やかでありながらも、ぞっとするほどに妖艶。きめ細かい肌は白磁のよう。細い首筋、すっきりとした鎖骨の下には、見事な膨らみ。ゆっくりとした一歩を踏み出すたびに、その膨らみがゆさりと揺れる。胸の谷間を見せつけるように――いや、見せつけるため、鳩尾あたりまで深く切れ込んだ襟。急な曲線を描く腰。長い脚。細かなレースに彩られた暗紫色のドレスはその体型を誇示して肌を包んでいるが、大きなスリットが開いており、左脚は付け根から露出している。そこに巻き付く、細い尾。背後からは、畳まれた黒い翼が覗く。――サキュバスである。
 ――ばたん、という重い音とともに、侍女が扉を閉めた。その音のおかげで客人はかろうじて正気に戻った。完全に見ほれていたのだ。慌てて立ち上がり、恭しい挨拶を。
「し、失礼いたしました。お初にお目に掛かります。ダハーシュ共和国行政府一等書記官、ガルファム・カーリミと申します。お目通りが叶い、光栄の極みです。本日はダハーシュ行政府長官アマルム・クバン・パルミドの個人的な使いとして参りました」
「ふふ。ようこそ、カーリミ殿。ラミーサ神殿神官長、フィルミア・シャル・アルヴァスよ。それとも、ビルサ共和国評議会議員、と名乗った方が良かったかしら。――遠路はるばる、ようこそ」
 見た目に違わぬ艶やかな声でそう返すと、彼女は悠然と腰を下ろし、ガルフにも向かいに座るよう促した。すぐさま、侍女が杯を二つ用意し、香しい茶を注ぐ。フィルミアはそれを優雅に受け取ると、一口飲んだ。やや遅れ、ガルフも一口飲む。ゴクリ、という音がひどく大きく響いた――気がした。
「それで、どういった御用かしら」
 単刀直入に切り出したのは女主人。彼女とて、要件など分かっている。次期市長の地位がほぼ確定している彼女に、ダハーシュが改めて繋がりを作ろうとしているだけだろう。もちろん、これまでにもダハーシュからは様々な使者が来ており、彼女はそれに相応の対応をしてきた。事実上の属国とは言え、相手は大陸有数の港湾都市国家。指導者同士が個人的に良好な関係を築くことが両国にとって有益なのは言うまでもない。もちろん、彼女個人にとっても大変に有益だ。
「はい。先月、こちらのラミーサ神殿内門の改修が終わったと伺い、神官長猊下にそのお祝いを、と」
「あら、ずいぶんと細々したことにお祝いを下さるのね。ありがたいわ、ラミーサ様もお喜びになりましょう」
 やや皮肉のこもった物言いにガルフは内心苦笑しつつ(彼とて同感なのである)、携えた書状を手渡した。フィルミアの視線が手紙をざっと撫でたところで、今度は、机の上に鎮座する小箱を、フィルミアへと恭しく差し出す。一見質素ながらも、丹念に仕上げられた木製の箱である。神官長は鷹揚に頷くと、客人に目配せする。
「どうか、お改めください」
「では、拝見するわ」
 直ちに侍女が箱を改め、主に奉った。箱の中から現れたのは、首飾りである。
 青色に淡く輝く透き通った円盤に、ラミーサ神の象徴である葡萄が精緻な透かし彫りで表現されている。涼やかに透き通った色合いを引き立たせる白金の金具にも、その一つ一つに手の込んだ細工が。円盤は大小が調和するように配置され、全体の美しさも、部分の美しさも、まさに非の打ち所のない工芸品であった。
「これは‥‥。海竜の鱗、ね? かつてのダハーシュの特産‥‥もう採れないと聞いていたけれど」
「新しくは採れませんから、宝石商から買うことになります」
「そう、貴重なものをありがとう。それに‥‥この箱も、ね」
「はっ、お納めください」
 意味ありげに微笑する神官長。彼女もガルフも、箱については何も言わない。その箱が見た目に反してずっしりと重いのは言わずもがな、である。さらに、ガルフは聞かれもしないのに付け足した。
「もちろんこれらはほんの手土産です、残りの品は間もなく船で参りますので」
「ふふ、楽しみにしているわ。――こちらからのお礼は後日改めて遣わしましょう。パルミド長官にはその旨、よろしくお伝え願うわね」
「かしこまりました」
 フィルミアは目をわずかに細め、微笑する。そしてしばし無言で首飾りを眺めた。窓の透かし彫りから差し込む日の光に、首飾りがきらめく。フィルミアの豪奢な美貌や服装に劣るまいと、首飾りも己の美しさを果敢に主張しているようだ。
「ねえ、カーリミさん」
「っ、は、はい」
 唐突に話しかけられ、ガルフは緊張を暴露してしまっただろうか。フィルミアは微笑みつつ、口を開く。
「ふふ。ねえ、この首飾り‥‥着けてみたいわ」
「は、はあ。どうぞ」
 普段の彼であれば――酒場で女をひっかけている時であれば、こんな間抜けなことは言わなかっただろう。しかし大陸一の商業都市国家、その次期最高権力者を前にして、いつもの機微は完全に失われていた。もっとも、それは相手の地位や彼の緊張のせいだけではない。フィルミアの――サキュバスの特性だ。彼女の放つ華やかで妖艶な空気、それは単なる「雰囲気」ではない。微弱な魔力を常に発散し、特に男の理性と本能を直接に揺さぶる。今でこそサキュバス族も都市生活になじんでいるが、かつては他種族の精気を奪って糧としていた種族である。今でも、その気になれば男を狂わせることなど赤子の手を捻るようなものだ。ましてや、その長であるフィルミアほどの者であれば。
 非公式な使命を帯び、侮られてはならないという一心で緊張を隠していたガルフだったが、相手が悪かったと言わざるを得まい。それを見透かし、フィルミアが笑う。彼女は優雅に立ち上がり、あっけにとられる男の隣に腰を下ろした。特大の乳房がゆさりと揺れる。ガルフの視線がさまよう。高級娼婦を前にして、興奮しつつも気恥ずかしさに縮こまる童貞少年のように。
「ねえ、着けてくださらない?」
 ひんやりとした指が、整えられた赤い爪が太股に触れる。傍目にも分かるほど、彼の体はびくんと震えた。もちろん、断ることはできない。自ら持参した首飾りを受け取ると、ガルフはそれをフィルミアの背後から掛け、豊かな金髪を掻き分ける。濃密な淫気が立ち上る。呼吸が思わず荒くなる――それだけでどうにか済ませた彼の胆力は、大いに称讃されるべきであろう。香しい髪に顔を埋め、背後から乳房を鷲づかみにしたいと雄の本能が叫ぶのを辛うじて鎮めつつ、彼はうなじの辺りで金具を留めた。
「‥‥できました」
 つとめて平静を装い、サキュバスに告げる。
「ありがとう。どう? 似合うかしら」
「よ‥‥よく‥‥お似合いです」
 振り返り、感想を求めるフィルミア。それに対して、ガルフは絞り出すように答えた。彼の言葉には一片の嘘も含まれていない。繊細な宝飾は彼女の華麗な美貌にふさわしく、そして彼女の豪勢な服飾にも決して埋もれはしない。しかし、いかんせん場所が悪いのだ。首飾りの先端は深々とした胸の谷間に鎮座し、それを見ようとすると、首飾りを見ているのか谷間を凝視しているのか分かったものではない。ガルフは必死で視線をそこから外そうとするのだが、気を抜くとすぐに視線が吸い寄せられる。かといって、不用意に上下に視線を動かすのも危険だ。谷間から上へと視線を移すと、艶やかな鎖骨、首筋、そしてひどく扇情的にぬめる唇が。下へ視線を向けると、信じられないようなくびれ、布地が肌にまとわりついてはっきりと視認できる股間のくぼみ、スリットから盛大に覗く美脚が目に飛び込んでくる。しかもその脚は、彼の太股にますます押しつけられてくる。腕が絡む。指が脇腹を撫でる。
「聞こえないわ‥‥」
 甘い声。その声はもう、からかい交じりのものではない。「男」を堕とそうとする、「女」の声。
 ――ぞくん。ガルフの背筋を、甘美な怖気が走り抜けた。耳元に響く、淫魔の声。指先が這い回り、布地越しに彼の体をなぞってゆく。鍛えられた筋肉を撫で、一方は乳首を探り当てる。一方はもちろん――。
「ふふっ‥‥立派ね」
 そこはもう、痛いほどに張り詰めていた。鋼のように硬く、強いバネのように反り返っていた。それを服の上から撫でる、指先。布地を押し上げる膨らみの先端は既に濡れ、ぬめりを含んだ透明の汁がにじみ出ていた。
「げ‥‥猊下‥‥、お戯れは‥‥おやめください」
「『猊下』はやめて。名前で――フィルミアと呼んでちょうだい」
「フィルミア様、お戯れは――」
「嫌よ。戯れではないわ‥‥私は本気で、あなたが欲しい‥‥。分かっているんでしょう? サキュバスが何を好むか‥‥金よりも、宝石よりも、男を――男の精を好むことを‥‥。精気に満ちた男を目の前にして、宝石だけを受け取って、それで終わりにしろだなんて‥‥ふふ、私は許さないわ」
 その声は優雅な評議会議員としてのものではなく、ましてや神官長としてのものではない。どろりとした艶と欲望をたっぷりと含んだ、淫魔の脅し。
 ――ガルフは目を閉じた。今、フィルミアと目を合わせることが破滅に繋がることを彼は直感していた。早く、この淫魔を退けなければ。さもなくば、彼はこの淫魔に取り込まれ、身も心も奪われてしまうことだろう。だが、無礼は絶対に避けねばならないのだ。どうにかしてこの誘惑を退け、穏便に話を済ませ、ここを脱出しなければならない。しかし濃密な淫気が彼の判断力を奪う。
 さきほど見てしまった、あのあまりにも魅惑的な胸元。肉感的な太股。淫らな唇。抱きしめ、邪魔な布きれをはぎ取り、双丘を揉みしだき、絡み合い、唇を貪り、長い脚を開かせ、そして潤んだ秘裂に――妄念が一瞬にして暴走する。その危険な思考を振り払おうと、彼は強くまぶたを締め付け、歯を食いしばる。だが。
「ああっ‥‥!」
 ガルフは喘いだ。手練れの娼婦である恋人が技巧を凝らしても、簡単には声を洩らさない彼が。彼を喘がせたのは、たった一度の口づけ。フィルミアは彼の首筋に、ごく軽いキスを落とした。首筋に、一度だけ。だというのに、その甘美な感触はまるで波紋のように広がってゆく。
「‥‥どう‥‥?」
「は、あ‥‥っ。おやめ、ください‥‥」
「だめよ」
 淫魔は残酷に言い捨てると、再び口づけを落とす。今度は鎖骨に。快楽が滲む。男の体がびくんと跳ね、淫魔は唇を笑みの形に歪めた。そして口づけを落とした箇所に舌を這わせ、そのまま舌先を滑らせて首筋を舐め上げる。びくん、びくん。ガルフの体が跳ねる。太股は無様に開き、腕がわななく。首筋に描かれた快楽の線から、その周辺へと熱が広がってゆく。
「か、かはっ‥‥はあっ、はあっ‥‥」
 快楽――これは快楽なのだろうか。ほんのわずかな愛撫、恋人同士であれば、ほんのじゃれ合いに過ぎない愛撫だというのに。もしもこの口と、唇を貪り合うような、舌を絡め合うようなキスをしたら――期待とも恐怖ともつかない感情が渦を巻く。
「いいわ‥‥もっと我慢なさい。限界まで、私が導いてあげる」
 くすくすと笑いながら、フィルミアは男の服を緩め、はだけさせる。そしてそこに、豊満な肉体を絡み付かせた。浅黒く逞しい身体に押しつけられ、乳房は淫らに歪み、大きく開いた胸元からまろび出る。
「あ、ああ‥‥っ! はあぁっ‥‥!」
「どう、この感触‥‥触りたかったんでしょう? いいわよ、揉んでも‥‥ふふ‥‥」
 乳房は圧倒的な量感を見せつけながら、その白磁のような肌を誇らしげに晒し、男の腕に、胸板に、淫蕩な感触を与える。柔らかく、にもかかわらずしっかりと反発力を返す乳肉――その先端には薄紅色の乳首。これ以上ないほどに完璧な、極美の乳房がそこにあった。しかしそれは、美しいと言うにはあまりにも淫らであった。男を誘い、狂わせるための乳房。
 その魔性の誘惑にガルフは身悶えした。彼はいまだ固く目を閉じていたが、何が起こっているのかはありありと分かる。あの魅惑の胸が今、己の胸板に押しつけられているのだ。そしてあの妖艶な美貌が、苦悶する己を見つめているに違いない。目を固く閉じれば閉じるほど、フィルミアの淫蕩な笑みがまぶたに浮かぶ。たわわな果実が淫らに歪み、彼の胸板を犯している様が見えてしまう。
「ねえ、見てもいいのよ‥‥」
 誘惑が響く。脳髄を揺さぶる。誘惑に屈したいという惰弱な考えが、急速に膨らんでゆく。彼は元々女好きだ。胸の大きい女が、妖艶な美女がたまらなく好きだ。特に、自分の美貌や魅力をしっかりと理解し、それを武器にする女が彼の好みなのだ。仮にフィルミアがサキュバスでなくとも、その容姿と態度にガルフは大いに心揺らいだことだろう。
 着衣の時でさえあれほどの魅力を放っていた肉体が、今や半ば裸になって己にまとわりついている――抱きたい。貪りたい。それは偽らざる本心だ。だが。だが‥‥!
「お願いです‥‥おやめください‥‥っ」
「何度言わせるの‥‥おとなしく溺れなさい。くくく‥‥くふふふふ‥‥!」
 邪悪と言って差し支えのない、凄艶な笑み。その表情は、かつて淫魔族が他種族との共存を選んでいなかった頃の、凶暴な妖艶さに満ちていた。

 唾液を絡ませた舌がうごめく、舌なめずりの音。長い舌が男の頬を舐めた。唇が耳に触れる。
「こんなに体を震わせて、熱くして。あなたの体は私を味わいたくて泣いてるわ‥‥。あなたさえ拒まなければ、すぐにでもその欲望を満たしてあげるのに」
 肉感的な太股がガルフの脚の間に割って入り、内股をさする。フィルミアは遂にガルフの手を取り、その豊満な乳房に押し当てた。極上の柔肉が、男の手を受け入れて淫らに歪む。ガルフは身体を仰け反らせた。それは抵抗ではない。快楽への、反応。
「くあ、ああ‥‥っ」
 掌から押し寄せる淫猥な快感に喘ぎを漏らす。むっちりと掌を押し返す弾力。吸い付くような触れ心地。その誘惑に、指先が意志に反して食い込む。何度も、何度も。弾力を確かめ、味わおうと。乳房を持ち上げるように、すくい上げるように揉み、指先に力を込める。男の指を捕らえ、飲み込まんばかりに歪む、乳肉。ずっしりとした量感。なめらかな肌。揉み込むたびに、甘美な触覚がガルフの手のひらを愛し、甘い吐息が鼓膜を欲情させる。
「いいわ‥‥もっと揉みなさい‥‥あはぁ‥‥ん」
 乳房に食い込む男の欲情を楽しみながら、フィルミアは体の奥からわき起こる期待と快感に身をよじる。熱い吐息がガルフに降りかかる。びくん。張り詰めた股間が、またしても大きく跳ねた。礼服の股間を三角形に持ち上げる、ガルフの肉槍。頂上の染みはますます大きくなってゆく。

「乳首‥‥もっと、触って」
 もはや誘導されるがまま、ガルフは人差し指で乳首を転がし、指を食い込ませる。視覚に頼らずとも分かる淫猥な形。だが、不意に違和感を感じた。
 ――つぷり。
 指先が、熱い隙間に飲み込まれたのだ。
「えっ‥‥!?」
 今までの経験にない感触に、彼は思わず目を見開いた。
 視界に広がるのは、あまりにも官能的な情景。絶世の美女が彼にしなだれかかり、ぞっとするほど艶のある目で彼を見ていた。口角をいやらしくつり上げた唇を舌が濡らす。そして彼の手は淫乳に導かれ、揉み、――その指先は、乳首に突き刺さっていた。
「ふふ、どう? 私のおっぱいの中は‥‥」
 フィルミアはガルフの手を取り、さらに奥へと導く。指の関節が一つ、二つ――乳房の中に飲み込まれてゆく。熱い粘膜が男の指を歓迎するかのようにまとわりつく。官能が指先から手首へと伝わる。初めての経験にあっけにとられながらも、彼はそこから目が離せずにいた。
「サキュバスとするのは初めてなのね‥‥いいわ、教えてあげる」
 ほっそりとした指に導かれ、男の中指までもが乳首に食い込み、飲み込まれる。
「かき回して‥‥女の中を指で愛するように‥‥はぁ‥‥ん‥‥」
 にちっ、ぬちゅっ‥‥粘液質の音が乳首から漏れる。指先に絡み付く粘膜。その卑猥な感触に、ガルフは半ば夢中になり始めていた。爆乳を揉みしだき、乳首を掻き乱す。乳房が熱を持ち、彼の手をますます強く溺れさせてゆく。互いの吐息が荒くなり、混じり合う。
「サキュバスの体は男を感じさせるためにあるのよ‥‥」
 遂にフィルミアは一糸まとわぬ姿となり、ガルフの腰に跨がった。もちろん、胸は揉ませたまま、乳首は指で犯させたまま。
「これでもまだ私を拒めるかしら? っくくく‥‥」
 肉棒の位置を確かめながら、彼女は笑う。そして片手で器用にベルトを緩めると――
「‥‥凄いわ、はち切れそう」
 瞬時に飛び出した肉槍に、フィルミアは目を細めた。それは猛々しく、凶暴な威容を見せつけていた。赤黒く張り詰めた先端は先走りを垂らし続け、てらてらと光っている。目の前に新鮮な肉をぶら下げられ、目を血走らせた猛獣のような、凶暴そのものの肉棒。熱気が立ち上る。
 フィルミアの顔は目に見えて紅潮した。唾液に濡れた舌先が唇を舐める。それは男を挑発するためではなく、欲情の表れだ。細い首筋がごくりと動いた。
(美味しそう‥‥ふふ、でもまだよ‥‥そこで涎を垂らして待っていなさい)
 彼女は肉槍を一瞥すると、己の肉体を誇示するように腰をくねらせる。
「あなたの欲望、存分に満たしてあげる。私の膣と腰使いに耐えられる男はいないわ‥‥狂うほどに射精しながら、私の胸を貪って‥‥。それとも、私を組み敷いて犯すのがお望みかしら? くふふ‥‥いいわ、どんな欲望だろうと叶えてあげる」
 ちゅぷ‥‥っ。男の手を取り、乳房から引き離す。名残惜しそうにまとわりつく粘膜に指先を愛撫され、ガルフはまたしても体を震わせた。フィルミアは体を倒し、その圧倒的量感を誇る爆乳を胸板に擦りつける。指でかき回されていた乳首から、母乳を思わせる白い液が垂れた。口づけが、額に、まぶたに、頬に、口元に。甘噛みが、首筋に、耳朶に。男の逞しい体を抱きしめるしなやかな腕。爪先が背筋を這う。さらには、蝙蝠のような翼が体を包み込む。ビロードのように滑らかな皮膜が甘美な感触を容赦なく与える。細く長い尻尾が脚に、尻にとまとわりつく。そして――
「もっと、私を感じて‥‥」
 陰嚢を、蟻の戸渡りをまさぐる感触が――尻尾が、菊座を撫でる。翼は身体を包み込み、フィルミアの発散する淫気をガルフの毛穴の一つ一つに浸透させてゆく。唇は首筋に、耳元に、頬に、口角に。指先は背を、脇腹を、首筋を責め立てる。甘美な快楽が、彼の精神を容赦なく削り取り、穿ち、砕こうと攻め寄せる。高熱に苦しむかのように、全身ががくがくと震える。指先が痙攣し、滑らかな肌を抱きしめようと藻掻いた。拒もうとする意志は、もはや崩れ去る寸前にまで打ちのめされている。フィルミアは笑う。そして器用に腰を浮かし、剛直を秘肉へ導いてゆく。
「抱いてあげる」
 紅い唇が、耳元で囁いた。熱く潤んだそこへ、肉棒が引き寄せられ、――。

 フィルミアはラミーサ神殿の神官長である。愛を司る女神に仕える者。だが、このときに限っては、愛の女神は彼女に味方しなかった。
 狂おしく勃起した肉棒が、フィルミアの貪欲な肉壺に今しも飲み込まれんとするその瞬間、まさにその瞬間に、ガルフのわななく手に触れるものがあった。それは、彼のベルトに下げられた、小さな護符。哀れな男の手はその護符を力なく握り――そして、力強く握りしめた。

「おやめ、ください」
 応接室に、ガルフの声が響いた。それは喘ぎ混じりの呻きではなく、はっきりとした意志の籠もった声。フィルミアの動きが止まる。
「おやめください、猊下」
 念を押すように、もう一度。フィルミアの目に驚愕の色が浮かんだ。ガルフはたたみかける。
「猊下。私には恋人が――婚約した女がいます。裏切るわけにはいきません」
「今さら何を言うの‥‥。男と女の熱情の前に、婚約――」
「『婚約など無力』、まさかそうおっしゃるのですか。ラミーサ様に仕えておられる猊下がそのようなことをおっしゃるなどとは、私には考えられません」
「‥‥っ」
 普段の彼女であれば、流れるようにガルフを論破したことだろう。様々な経典に通じ、当代一流の神学者でもある彼女にとって、詭弁術などお手の物のはず。だが、彼女は言葉を紡げなかった。沈黙があった。フィルミアもガルフも動きを止め、視線が衝突した。沈黙を破ったのは、サキュバス。彼女はため息をつき、男から体を離した。
「――興ざめね」

* * *

 興ざめとは言ったものの、フィルミアは退席しなかった。その場で着衣を整え、改めてガルフの向かいに腰掛ける。そして何ごともなかったかのように茶を一口飲むと、口を開いた。
「さて。せっかく遠方から来てくださったのに、贈り物をいただいてそれで終わり、という訳にはいかない――でしょう?」
 神官長はにやりと笑った。強烈な誘惑をどうにか退け、一息つこうかという風情のガルフだったが、いわば本題がやってきたというわけだ。重責に、再び顔が引き締まる。
「はっ。猊下と我がダハーシュの末永い友好が私どもの願い。慈悲深きラミーサ様の――」
「美辞麗句は無用よ。――友好、そうね。私もあなた方とは仲良くおつきあいしたいわ。でも、それには障害がある――もちろん、あなたもご承知だとは思うけれど。その改善状況が一向に伝えられてこないことは、とても――残念、ね」
 ガルフの口上を遮ると、彼女は政治家らしい言い回しを交えつつ、彼女にとっての本題について、ダハーシュを非難した。ガルフには予想された非難とはいえ、説得できる材料も、うまくはぐらかす方法もない。誘惑を受けていたときとは別種の汗が、彼の背中を滑り落ちる。
「‥‥申し訳ございません。関係部門が現在検討中でして――」
 ダハーシュ当局の使者は紋切り型の口上で凌ごうとするが、フィルミアはそんなものに配慮はしない。
「早急な改善をお願いするわ。人々に愛を与える神聖な職業が、硬直した法によって縛られていることを、ラミーサ様は悲しんでおられます。それに、人間とそれ以外の種族の扱いに差が設けられていることについては、評議会議員としても看過できないわね。――こういったことは既に何度も伝えました。そろそろ誠実な対応があってしかるべき時期だと思うのだけど、どうかしら」
「ははっ‥‥」

 フィルミアの要求、それはダハーシュにおける売春業の完全な開放である。人間の王族による封建制が続いたダハーシュは、ビルサほどに「開放的」ではない。おおっぴらな売春は取り締まりの対象であり、中でも異種族の売春は御法度。
 そして、フィルミアのビルサ市長選出が近づいた今、この問題はダハーシュにとって頭痛の種となっていた。フィルミアはビルサにおけるラミーサ神殿神官長、言い換えれば大陸中部におけるラミーサ信仰の最高権威である。ラミーサ神は豊穣の女神――そして、性愛の女神にして、娼婦の守護神である。ビルサのラミーサ神殿周辺には娼館がひしめき、客を盛んに誘っている。娼婦は娼婦ギルドに属し、その上納金はもちろん神殿へ。神殿はそれを元手にビルサ勢力圏の各地で金融業を営み、フィルミアの権力を強力に支えている。彼女がこの都市国家で有数の権力者であるのは、その政治力と、神官長という権威と、美貌と、そして財力あってのことだ。詰まるところ、ダハーシュへの売春業開放要求は、彼女の利権拡大が目的である。
 ダハーシュのラミーサ神殿は、ダハーシュ建国以来、東方諸国系の独自教団を維持していた。が、近年、ついにビルサの神殿に――つまりはフィルミアに屈した。それに伴い、神殿は現在、大規模な増改築中であり、間近に迫った竣工に際しては新たな神官長がビルサから招かれる。言うまでもなく、新神官長はサキュバスであり、フィルミアの忠臣である。一般民衆はともかく、権力者達にとって、それがフィルミアのダハーシュ事務所開設を意味することは明白であった。
 保守的なダハーシュに対し、フィルミアはこれまで一定の「配慮」を見せていた。ダハーシュの神殿を傘下に収めてからも、その教団組織にあまり手を入れなかったこともその現れだ。だが、現市長の任期満了が近づくにつれ、彼女の介入は露骨に、要求は強硬になりつつある。ビルサ市長となれば、私益のために動くことは厳しく監視される。だからこそ彼女は、市長になる前に権益をできるだけ拡大しておきたいと考えているのだ。そのためにダハーシュで売春業の全面解禁を。解禁されれば即座に娼婦ギルドが組織され、現役の娼婦たちはその中に組み込まれることだろう。――そう、ガルフの恋人も。妖艶でいながら、面倒見の良い姐御肌の、誇り高い恋人。彼女は娼婦であり、売春宿の経営者だ。
 フィルミアの要求が祖国にとって有益か、あるいは有害か、彼は判断したくなかった。政治のごたごたに首を突っ込まず、特定の派閥に与しないことによって、官僚として重宝されているのだから。だが、この件に関しては、第三者ではあり得ない。彼は逡巡を払うべく、内心で頭を振った。
(俺はただの役人。ただの使い走り)
 それは彼なりの覚悟であり、官僚としての倫理でもあったが、堕落でもあった。己の力を信じず、立場を守ることに汲々とする小役人の発想。
「猊下のお気持ちは確かに承りました」
「迅速かつ意味のある対応を期待しているわ。我が神殿は既に百年以上にわたってこのことをお願いしています。これ以上長引けば‥‥そちらの神官たちも残念に思うでしょう。祭儀に支障が出なければ良いのだけれど」
 フィルミアは言葉だけは心配そうに、だが明らかに挑発的にそう言う。ラミーサ神の信者は娼婦だけではない。その中核を担うのは、農民である。酒造業者の信仰も篤い。祭儀や祈祷が滞れば彼らは不安に駆られるだろう。またフィルミアは言葉にこそ出さなかったが、神殿の金融業務についても同じ対応を取らせる可能性もある。フィルミアの要求は、実質的に脅迫の域に達しつつあった。
「ただ――」
「何かしら」
 ガルフは一瞬目を閉じ、腹をくくった。この一言で、使い走りとしての立場を、半歩超えることになる。
「この件は、娼婦達の間にも内々漏れ聞こえているようで」
 嘘ではない。彼が漏らしているのだから。
「合法化を期待する声もある一方、不安の声も」
 完全な嘘ではないが、彼が直接聞いた声ではない。
「不安?」
 フィルミアの眉がわずかに動く。
「売春が合法化されれば、おそらくラミーサ神殿を頼ってギルドが結成されるでしょう。それによって娼婦たちの生活がかえって圧迫されるのではないか‥‥という声も」
「ふふ、取り越し苦労よ。事実、こちらではすべての娼婦が一定以上の生活を保障されているわ。もちろん、娼婦の守護者として、神殿も彼女達への協力は惜しまない」
 フィルミアは一笑に付した。無論これは予想通りの返答。ガルフは淡々と――という表情を必死で作りつつ、追加する。
「もう一点は――これは猊下には申し上げにくいのですが」
「言いなさい」
「このたびのダハーシュにおける神殿改築、新神官長様の着任、それに加えて異種族売春業が完全に開放‥‥そうなれば、ビルサからサキュバス族の神官や娼婦が大量に来るのではないかと、心配‥‥というと言葉が悪いのですが、そのような声が」
 フィルミアの表情は変わらない。だが、わずかに目つきが真剣になった――ように、思われた。
「それは誰が?」
「主に保守派貴族です。一部の改革派貴族もですが、こちらはむしろ当地の娼婦の不安を代弁しているようで」
 ビルサにおけるラミーサ神官は、そのほとんどが淫魔族。そして多くが、公的あるいは私的に、実質的な売春を行っている。彼女らの流入は、娼婦としては商売敵の参入と変わらない。
「‥‥その件は、行政府においては?」
「‥‥私からは申し上げられません」
 当然である。まったく議題になっていないのだ。守旧派にとって、売春、中でも異種族売春を開放することは耐え難い屈辱だが、かといって強固な信者層を持つラミーサ神殿そのものを悪し様に言うわけにはいかない。改革派としても非合法とされる者たちの意見を表だって代弁するわけにはいかないし、そもそもこの問題に積極的に関わる気は薄い。ダハーシュ当局は、上からねじ込んでくるビルサ有力者と下から突き上げてくる国内守旧派をどう折り合わせるかで手一杯であり、娼婦どもの生活がどうなろうと知ったことではない。フィルミアとしても重要なのは己の利権であって、ダハーシュの娼婦の生活はさして問題ではあるまい。が、彼女は「ダハーシュにおける娼婦の地位向上」を口実に要求を強めてきた手前、ある程度建前を守る必要がある。
 フィルミアは数秒考え、口を開いた。
「――わかりました。それらについてはこちらも配慮しましょう。もとより、無用の軋轢を増やすのは本意ではありません。全てはラミーサ様の御慈悲を広めんがためのこと」
「ご理解いただければ幸いです」
「ただしそれは、私の望みが受け入れられるのを前提とした話よ。――いいわね?」
 神官長はにやりと笑い、念押しする。ガルフはまたしても、汗が背中を流れ落ちるのを感じた。

 会話はそれからもしばらく続いた。フィルミアの要求は一貫しており、ガルフとしても、ダハーシュ当局が折れるのは時間の問題だろうと思われる。反対派の結束も動揺している(買収されているのであろう)。そこに、交渉役の特権として、わずかに私意を介入させることができた。母国にとっても、それが総合的に見て悪い結果をもたらすことはないだろう――と、彼は思う。すなわちガルフは、改革派とフィルミアにこっそりと与することにしたのだ。それが恋人のため、ひいては自分のためであると信じて。
 時計塔の鐘が鳴り、二人の会話を中断させる。
「そろそろ時間ね‥‥。礼拝の用意があるの、このあたりで失礼してもいいかしら」
「はっ。長々とお時間を頂き、申し訳ありません。それと‥‥先ほどはご無礼を。お許しください」
「気にしないで。――そういえば、さっきの話‥‥婚約者、と言っていたわね? 正式に結婚するときには二人でビルサへおいでなさい。私が神官長として祝福しましょう」
「も‥‥もったいないお言葉、恐縮です」
 その様子に穏やかな微笑を浮かべると、フィルミアは優雅に立ち上がり、軽い挨拶と共にその場を去る――と見えたが、何か言い忘れたことでもあるのか、くるりと振り返り、最敬礼で見送っていたガルフに近寄った。しなやかな腕が首に絡み、優美な翼が彼の身体を包み込む。甘い香り。巨乳が再び彼の胸に触れる。心臓がまたしても早鐘を打ち、彼のとある一部分が急速に鎌首をもたげはじめる。
「な、何――」
 何かご用でしょうか、と訊くことはできなかった。フィルミアの唇が、彼の唇を塞いだから。しかし唇はそれ以上彼を貪ることなく、すぐに離れた。甘い声が耳元で囁いた。
「――今後、私的な交渉はあなたを担当者に指名するわ」
 その他何か言われた気もしたが、何も覚えてはいない。彼は呼吸も忘れて石のように立ち尽くし、女主人を見送った。そしてその姿が部屋から消えた瞬間、彼の体はソファにへたり込んでしまった。大量の汗が、今さらのように噴き出す。しかしそうしてもいられない。一部始終の間、影のように控えていた侍女に促され、酔っ払いよりはいくらかしっかりした足取りで、彼はその屋敷を退出したのであった。

* * * * *

「よう」
 まぶしい外との明暗差にややとまどいながら、その男は店員に軽く挨拶した。怪しげな薬瓶、見るからに不気味な植物の干物、何に使うのやら想像も付かない器具が所狭しと並ぶ店の奥で、本を読んでいたらしい店番が顔を上げた。
「いらっしゃいませ‥‥あ、この間の」
 愛想良く声を掛ける童顔の店員。何か思うところがあるのか、やや相手の出方を探るような目である。
「どうでした? その‥‥効果、ありましたか」
「おう。おかげで何とか無事に切り抜けられた。助かったぜ、今日はその礼を言いに来ただけだ」
「それは何よりです。俺もちょっと、不安だったので」
「実際、かなり危なかったけどな。――と、これはその礼だ。ま、その辺で買ったもんだが」
 客の嬉しそうな答えに、店員も笑顔を返す。カウンターを挟んで、二人はしばしの歓談に興じ始める。するとその話し声に釣られたのか、店の奥から別の声が聞こえてきた。こちらは女の声だ。
「んー‥‥お客さん?」
「あ、師匠。おはようございます」
「‥‥おはよう、って時間か‥‥?」
 明らかに昼過ぎである。客は思わず素朴な疑問を呟いたが、それは店員には聞こえなかったようだ。間もなく、声の主が現れた。
「いらっしゃい。どういう御用かしら」
「ど、どうも‥‥」
 客は面食らった。やむを得まい。その姿はどう見ても、この店――魔導具店とは不似合いである。高く束ねた赤紫色の髪。妖艶で強気な美貌。腰から下は巨大な蛇のようだが、多種族社会になじんでいる男にとってそれは驚くほどのことではない。が、その上半身は驚くに値した。‥‥特大の乳房を薄布が覆っているだけ。並の踊り子よりも遙かに刺激的だ。物憂げに髪を掻き上げると、その膨らみがぶるんと揺れる。その拍子に薄布がずれはしまいか、と心配になるほどだ。
(すげ‥‥え‥‥。なんだ、昨日から俺は‥‥おっぱいの神様に祝福されてるのか‥‥?)
 昨日は仕事とはいえ、これまた特大の胸をたっぷり鑑賞することになった。まさかそれが二日続くとは。またしても視線が吸い寄せられるのを我慢しながら、彼は顛末を話した。仕事でサキュバスと相対することになったこと。それに備えて、サキュバスの誘惑から逃れられる魔導具をこの店で買ったこと。おかげで仕事が無事に終えられたことを。丁重に礼を言う男に、しかし店主の女は不審げに首をかしげた。そして、隣の弟子を横目で見る。
「‥‥あんた、何を売ったのよ」
「月光石の護符ですけど」
「‥‥月光石がサキュバス族の淫気避けに効くなんて、あたしは初耳よ」
「えっ、でも、効いたんですよね!?」
「お、おう‥‥たぶん‥‥」

 フィルミアの誘惑に溺れそうになったあの瞬間。手に偶然触れた護符を握りしめた時――彼は何よりも大切なものを、恋人を思い出し、危ういところで堕落を逃れた。その意味では、この店員が売った護符は効いたような気がするのだが‥‥それが本当に効き目かと言われると、彼としても自信が揺らぐ。その様子に店主はかなり疑わしげな目を向けていたが――
「これは本来、魔導士が修行に使う護符なのよね。集中力を高め、雑念を捨てる‥‥そういう護符なのよ。だから淫気避けに効くようなものじゃないんだけど‥‥あなたが正気を失いそうになって、それでも何かを思い出さなきゃいけないことがあって、その時にこれの力を引き出せたなら‥‥」
「――あり得ない訳じゃない、ですか?」
 と、弟子。彼も自分の見立てに不安があるのだろう、真剣な顔である。
「‥‥まあね。でもあんた、うかつなものを売りつけるんじゃないわよ。あたしの評判に傷が付いたらどうしてくれんのよ」
「で、でも師匠! 俺が相談に行ったときは『あー、うん、効くんじゃない‥‥』って言ったじゃないですか!」
「寝起きのあたしに責任を求めるつもり!?」
「そんなこと言ったって、俺が聞きに行ったのって昼過ぎどころか夕方ですよ!? いくら何でも『寝起き』はないです!」
「あんたねえ、前の晩にあたしを一睡もさせずにヤりまくっておきながら、よく言えるわね!」
「それだって師匠が!」「なによあんただって!」
 技術的な会話だったはずが、どういう弾みか、一瞬にして聞くに堪えない痴話喧嘩となる。相手は恩人ゆえ何も言えないが、喧嘩が収まるまでこの場に留まるのはどう考えても精神力の無駄遣いである。やいのやいのと続ける二人に、客はいちおう一通りの礼を改めて述べ(相手が聞いているかどうかはこの際どうでもよい)、不毛極まる言い合いを背中で聞きつつその店を後にした。

「なんか‥‥疲れたな‥‥。土産でも買って帰るか‥‥」

(終)

弟子シリーズ外伝。前から書きたかった神殿がらみの話でした。せっかくのサキュバスなのにエロシーンがやたらぬるいのはご愛敬。

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